陽明学者安岡正篤が亡くなったのは、昭和58年(1983)12月13日である(享年85才)。今から23年前の事だ。安岡は、大阪市順慶町に住む堀田喜一・悦子の四男として生まれた。父は、楠木正行側近であった勤王武士堀田彌五郎正泰の末裔で、尊王心の篤い家柄である。幼少の頃から漢文に親しみ、中学生の時に四条畷に住む大儒閑翁岡村達から陽明学の手ほどきを受けた。
一高へ入学する時、彼は安岡家へ養子に入り、新宿区大久保に住む。その後、東京帝大法学部政治学科に在籍、猶存社の大川周明、北一輝と付き合う。大正11年(1922)の卒業直前に出版した「王陽明研究」が有名になり、海軍上層部や財界との深い交流が始まった。軍部とは、特に統制派及び条約派幹部との交誼が多い。
安岡の漢学素養には、余人を許さぬ突出したものがあった。特に終戦の詔勅へ加筆修正したことが知られ、また元号<平成>の発案者である。池田勇人の派閥名<宏池会>も彼の命名による。
詔勅に加筆する際、安岡は「義命ノ存スル所」とした。だが、それは「時運ノ趨ク所」と書き換えられた。義命が辞書に無い言葉であると言うのが理由であった。時運では、成りゆきに任せるとの意味になるのが安岡の反対理由である。「国の運命は、義を立てて存続が定まる、道義を持ってこそ国家がある」との内容を彼は明確にしたかったのである。
安岡は、一貫して現代政治における知行合一の意義を説いた。戦後の官僚上がりの首相達、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳と個人交流し、彼らへ大きな影響を与えた。しかし、自らは政治家として動く事を避け、政界の領袖へ精神的影響を及ぼす事に留まった。党人上がりの政治家、田中角栄は安岡を敬して遠ざけた。
昭和55年(1980)、大平首相が急死した後を受けて、自民党総務会長鈴木善幸氏(元社会党所属)が印綬を帯びる。<暗愚の宰相>と揶揄された存在であった。それと共に、安岡は80才を過ぎた老齢もあってこの時期から政財界への影響力を失う。鈴木氏の後、首相となった中曽根康弘氏は、若い頃から安岡と反りが合わなかった。中曽根氏が「戦後政治の総決算」を唱えて行政改革を始めようとした時期(1982-83)と安岡の衰退時期は見事に一致する。
安岡逝去前の半年間、40才も年の違う細木数子氏との交際は、彼が既に冥界を彷徨っていたとしか考えられぬ。だが、それはあくまでも個人的な話題であって、安岡が半世紀の間政治的に為して来た事とは別問題である。
奇妙な事に、安岡存命中は首相の靖國神社参拝が殆ど問題とならなかった。三木武夫が首相であった昭和50年(1975)8月15日、戦後始めての終戦記念日首相参拝が行われた。この時、公人・私人が話題になり、三木は個人参拝と言い切って禍根を残した。これは全く余計な事であり、問題を招く発言である。
三木発言以後、先帝陛下は靖國参拝を遠慮されるようになった。しかし、首相参拝自体はその後何事も無く10年間静かに続けられた。ちなみに、三木は安岡を一顧だにしなかった。
中曽根首相の8月15日靖國参拝は、鈴木元首相が実行していたように就任直後の昭和58年からも続けられ、昭和60年が最後の年となった。それは、中共のクレームに配慮したからである。中曽根氏に言わせれば、友人胡耀邦総書記の地位保全のためでもあったと言うが、公私混同も甚だしい。これ以後の歴代首相は、靖國参拝を全く取り止めた。仮に、昭和60年当時安岡が健全な精神を維持して存命であれば、影響力を中曽根氏へ及ぼしたであろうし、当今の事態は避けられる可能性があったと想像する。
安岡が逝去し、中曽根氏が靖國参拝を止め、先帝陛下が崩御されるまでの5-6年間に、この国は精神的カタストロフィーへ突入する準備をしていたのだろうか。
平成13年(2001)8月13日に小泉純一郎氏が首相就任後に首相参拝は復活、現在まで参拝時期こそ異なるが5回継続されている。それに対する政財界の反撥は、衆知の如く益々激しくなって来た。ただ、関西財界には、安岡の教えが未だ色濃く残っているようだが。
福田赳夫の秘書時代に、小泉首相が安岡から直接に薫陶を受けたかどうかは定かでない。「構造改革無くして景気回復無し」の小泉スローガンは、見掛けの思考方法だけではあるが大塩平八郎あるいは備中松山の陽明学者山田方谷を思い起こさせる。また、部分的に小泉政権で政治改革が実行された事も認めたい。
さて、漢籍と支那史に造詣の深い安岡であるが、戦前戦後を通じて心底では日本人の矜持を重視し、筋を通す愛国者であったと思う。一方、彼はテロを嫌い、大川周明や北一輝らと距離を置いていた。それ故に、保守本流と言われた政治家達、そして経営者達は、敗戦後精神的な拠り所を失っていたためか、少しでも安岡と語り合って日本の将来を見出そうとしたのだろう。安岡が逝去し、自己顕示欲の強い中曽根氏が首相になってからは、国政における公私が全くいい加減になり、為政者の日本精神は漂流し始めた。
実際に、ニューリーダーと言われた竹下登氏以降では、政界の黒子達(金丸信、野中広務氏ら)がぞろぞろと臆面も無く表に出て来て、政治屋の金銭欲を露見させつつ醜悪そのものの政治劇を演じている様は国民の等しく感じるところである。また、平成となってからは、中共も遠慮なく日本へたかるようになった。その残滓とも言うべき小沢一郎氏が、只今は枯れ尾花の如く野党風にそよいでいる。
靖國参拝を中曽根氏が止めて既に20年、泉下の安岡は「終戦詔勅にあった通りだ、やはりな」と想っている事であろう。我が国国民は、改めてその大きな問題点にゆっくりと気付き始めている。それは、安岡正篤の霊が「このままでは、いけない」と言う訳で、なお現世にじっと留まっている証と思わざるを得ないのである。
(故人敬称略)
一高へ入学する時、彼は安岡家へ養子に入り、新宿区大久保に住む。その後、東京帝大法学部政治学科に在籍、猶存社の大川周明、北一輝と付き合う。大正11年(1922)の卒業直前に出版した「王陽明研究」が有名になり、海軍上層部や財界との深い交流が始まった。軍部とは、特に統制派及び条約派幹部との交誼が多い。
安岡の漢学素養には、余人を許さぬ突出したものがあった。特に終戦の詔勅へ加筆修正したことが知られ、また元号<平成>の発案者である。池田勇人の派閥名<宏池会>も彼の命名による。
詔勅に加筆する際、安岡は「義命ノ存スル所」とした。だが、それは「時運ノ趨ク所」と書き換えられた。義命が辞書に無い言葉であると言うのが理由であった。時運では、成りゆきに任せるとの意味になるのが安岡の反対理由である。「国の運命は、義を立てて存続が定まる、道義を持ってこそ国家がある」との内容を彼は明確にしたかったのである。
安岡は、一貫して現代政治における知行合一の意義を説いた。戦後の官僚上がりの首相達、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳と個人交流し、彼らへ大きな影響を与えた。しかし、自らは政治家として動く事を避け、政界の領袖へ精神的影響を及ぼす事に留まった。党人上がりの政治家、田中角栄は安岡を敬して遠ざけた。
昭和55年(1980)、大平首相が急死した後を受けて、自民党総務会長鈴木善幸氏(元社会党所属)が印綬を帯びる。<暗愚の宰相>と揶揄された存在であった。それと共に、安岡は80才を過ぎた老齢もあってこの時期から政財界への影響力を失う。鈴木氏の後、首相となった中曽根康弘氏は、若い頃から安岡と反りが合わなかった。中曽根氏が「戦後政治の総決算」を唱えて行政改革を始めようとした時期(1982-83)と安岡の衰退時期は見事に一致する。
安岡逝去前の半年間、40才も年の違う細木数子氏との交際は、彼が既に冥界を彷徨っていたとしか考えられぬ。だが、それはあくまでも個人的な話題であって、安岡が半世紀の間政治的に為して来た事とは別問題である。
奇妙な事に、安岡存命中は首相の靖國神社参拝が殆ど問題とならなかった。三木武夫が首相であった昭和50年(1975)8月15日、戦後始めての終戦記念日首相参拝が行われた。この時、公人・私人が話題になり、三木は個人参拝と言い切って禍根を残した。これは全く余計な事であり、問題を招く発言である。
三木発言以後、先帝陛下は靖國参拝を遠慮されるようになった。しかし、首相参拝自体はその後何事も無く10年間静かに続けられた。ちなみに、三木は安岡を一顧だにしなかった。
中曽根首相の8月15日靖國参拝は、鈴木元首相が実行していたように就任直後の昭和58年からも続けられ、昭和60年が最後の年となった。それは、中共のクレームに配慮したからである。中曽根氏に言わせれば、友人胡耀邦総書記の地位保全のためでもあったと言うが、公私混同も甚だしい。これ以後の歴代首相は、靖國参拝を全く取り止めた。仮に、昭和60年当時安岡が健全な精神を維持して存命であれば、影響力を中曽根氏へ及ぼしたであろうし、当今の事態は避けられる可能性があったと想像する。
安岡が逝去し、中曽根氏が靖國参拝を止め、先帝陛下が崩御されるまでの5-6年間に、この国は精神的カタストロフィーへ突入する準備をしていたのだろうか。
平成13年(2001)8月13日に小泉純一郎氏が首相就任後に首相参拝は復活、現在まで参拝時期こそ異なるが5回継続されている。それに対する政財界の反撥は、衆知の如く益々激しくなって来た。ただ、関西財界には、安岡の教えが未だ色濃く残っているようだが。
福田赳夫の秘書時代に、小泉首相が安岡から直接に薫陶を受けたかどうかは定かでない。「構造改革無くして景気回復無し」の小泉スローガンは、見掛けの思考方法だけではあるが大塩平八郎あるいは備中松山の陽明学者山田方谷を思い起こさせる。また、部分的に小泉政権で政治改革が実行された事も認めたい。
さて、漢籍と支那史に造詣の深い安岡であるが、戦前戦後を通じて心底では日本人の矜持を重視し、筋を通す愛国者であったと思う。一方、彼はテロを嫌い、大川周明や北一輝らと距離を置いていた。それ故に、保守本流と言われた政治家達、そして経営者達は、敗戦後精神的な拠り所を失っていたためか、少しでも安岡と語り合って日本の将来を見出そうとしたのだろう。安岡が逝去し、自己顕示欲の強い中曽根氏が首相になってからは、国政における公私が全くいい加減になり、為政者の日本精神は漂流し始めた。
実際に、ニューリーダーと言われた竹下登氏以降では、政界の黒子達(金丸信、野中広務氏ら)がぞろぞろと臆面も無く表に出て来て、政治屋の金銭欲を露見させつつ醜悪そのものの政治劇を演じている様は国民の等しく感じるところである。また、平成となってからは、中共も遠慮なく日本へたかるようになった。その残滓とも言うべき小沢一郎氏が、只今は枯れ尾花の如く野党風にそよいでいる。
靖國参拝を中曽根氏が止めて既に20年、泉下の安岡は「終戦詔勅にあった通りだ、やはりな」と想っている事であろう。我が国国民は、改めてその大きな問題点にゆっくりと気付き始めている。それは、安岡正篤の霊が「このままでは、いけない」と言う訳で、なお現世にじっと留まっている証と思わざるを得ないのである。
(故人敬称略)
ワールドカップが終わるまで相場は大きく動かないでしょうね。
安岡正篤氏については、恥ずかしながらほとんど知りませんでした。政治における知行合一というのは極めて大きな胆力が必要ですね。遠く忘れ去れていた事のように思えます。
小泉首相と陽明学が結びつくとは思いもよりませんでした。いつも勉強になります。