陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

名曲<オホーツクの舟唄>と還れ!北方領土

2008-08-12 17:35:40 | 読書・映画・音楽

 グルジアへ容赦なく侵入するロシア軍、その暴虐に満ちた姿を見ていると、どうしても敗戦直前の満州、樺太や北方領土へのソ連軍侵略が思い起こされる。特に、ソ連軍に蹂躙された固有の北方領土、つまり歯舞島、色丹島、択捉島、国後島に加え南樺太の同胞達が体験した悲しい姿は、忘れられないものがある。そして、講和後も戻らぬ国後島の名前は、愛唱歌「知床旅情」で今も日本人に広く知られている。

 森繁久弥は、戸川幸夫の小説「オホーツク老人」(1959)を読み、映画化を決心、主として羅臼(らうす)町それに斜里町で現地ロケを行って、昭和35年(1960)に映画「地の涯(はて)に生きるもの」を完成させた。当時の羅臼の人々は、映画製作に全面的に協力、危険な船の難破シーン撮影にも大いに貢献した。残念ながら、私はこの映画を見ていない。

 森繁は、撮影完了後現地の人々への感謝を籠めて、彼らと別離の宴席で「さらば羅臼」の詩を発表し、それにギターで即席の曲を付けて歌ったと言う。羅臼の人々は彼の好意を大いに悦んだ。

 その後、歌曲「さらば羅臼」は、大幅に歌詞が変更されて「知床旅情」になって行った。これは、昭和30年代に流行した歌声喫茶などで歌われていたようである。フォークソングブームに乗って、東大の学生運動で活躍した加藤登紀子が、昭和45年(1970)11月にシングル版でこの曲を発表すると爆発的な人気を呼んだ。折から「ディスカバー・ジャパン」の掛け声も大きく、北辺の旅が注目されていたのも関係し、知床は有名になった。

知床旅情

作詞・作曲 森繁久彌
歌 加藤登紀子

知床の岬に
はまなすの 咲くころ
思い出して おくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜は明ける

旅の情か
飲むほどに さまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ 君を 抱きしめんと
岩かげに 寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た
知床(ラウス)の村にも
君は出て行く 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いかもめよ
白いかもめよ 


 加藤登紀子は、昭和46年(1971)紅白歌合戦に出場、翌年左翼活動家の藤本敏夫(「反帝学連・委員長」と獄中結婚をしたが、歌手としての存在感を次第に高めていった。藤本が2002年に亡くなり、加藤は一転して国連環境計画親善大使となった。そして、今春国連本部で彼女は「知床旅情」を披露したと言う。

加藤登紀子 国連議場で「知床旅情」

国連環境計画(UNEP)親善大使を務める歌手、加藤登紀子は25日、「国連職員の日」に合わせてニューヨークの国連総会議場で開かれたイベントに出演、代表曲の1つ「知床旅情」などを歌い、環境や農業の大切さをアピールした。

 知床旅情を歌った際には、舞台の大型スクリーンに北海道の豊かな自然が映し出された。このほか、赤い衣装で「あなたに」など数曲を歌った加藤には、1曲ごとに観客の国連職員や外交官らから大きな拍手が送られた。

 加藤は、親善大使としてアジアを中心に12カ国を訪問。出演に先立つ会見ではアジアの環境破壊に触れ「アジアは(もともと)環境とバランスの取れた生き方をしてきた。これからは旧来の社会が持っていた知恵を取り戻すことが大切だ」と話した。 (共同)
[ 2008年04月26日 11:17 ]
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20080426016.html


 確かに、今から38年前に加藤登紀子が歌わなければ、「知床旅情」はあまり人に知られない歌曲に留まっただろう。その意味で、この歌は作詞・作曲の森繁と共に加藤登紀子の名前も忘れる事は出来ない。美空ひばり、石原裕次郎、芹洋子らの歌手もこの歌を歌った。

 だが、「知床旅情」は旅人の孤独感と寂寥感が中心で、国後は遠くに霞んで見えるだけ。北方領土への熱き想いは語られていない。これは、歌声喫茶などで採用されるために、ソ連に遠慮したためだろう。

 加藤による歌唱は、多くの人達が良く知っているから、ここでは森昌子が情感を籠めて歌っているのを聞いてみよう。
http://jp.youtube.com/watch?v=R6T-ka63EkA&feature=related


 さて、森繁の作った原曲「さらば羅臼」は、どんな歌だったのだろう。私はそれが「オホーツクの舟唄」と名前を変えて今も残っていると想像する。オホーツクの海に生きる人達の厳しい冬の生活や春を待ち遠しく想う心、そしてアイヌの風習を織り込んで、ソ連に奪われた国後島へのノスタルジーを語る内容で、「知床旅情」とは些か趣が異なる。これは、旅人の歌ではない。

オホーツクの舟唄

作曲・作詞 森繁久弥
歌   倍賞千恵子

(何地から 吹き荒ぶ 朔北の吹雪よ 
私の胸を刺すように オホーツクは 
今日も海鳴りの中に明け 暮れてゆく
父祖の地のクナシリに 長い冬の夜が開ける日を 
白いカモメが告げるまで
最涯の茜の中で 私は 立ち尽くす 
何故か 目頭の涙が凍るまで)

1.オホーツクの海原
  ただ白く凍て果て
  命あるものは
  暗い雪ノ下
  春を待つ心 
  ペチカに燃やそ
  哀れ東(ひんがし)に
  オーロラかなし

2.最涯(さいはて)の番屋に 
  命の火チロチロ
  トドの鳴く夜は 
  いとし娘(こ)の瞼に
  誰に語らん 
  このさみしさ
  ランプの灯(ほ)影に 
  海鳴りばかり

3.スズランの緑が 
  雪解けに光れば
  アイヌの唄声 
  谷間にこだます
  シレトクの春は 
  潮路に開けて
  舟人のかいな 
  海に輝く

4.オレーオレー オーシコイ
  沖の声 舟歌
  秋あじだいエリャンサ
  揚げる網ゃ大漁

  霞むクナシリ 
  我が故郷
  何日の日か 詣でむ 
  御親(みおや)の墓に
  ねむれ静かに

 この歌は、森繁も歌っているのだが、私は倍賞千恵子(当時36歳)がNHKのステージ(1977)で歌ったものが好きである。伸びのある豊かな声量と、SKDで鍛えた彼女の演技力が加わり、その迫力は見る人、聴く人を圧倒する。

オホーツクの舟唄  倍賞千恵子 Baisyou Chieko


 倍賞千恵子は、北方領土へ深い想いを示しながら、祈るように「オホーツクの舟唄」を歌い上げる。この歌は、第1節.起、第2節.承、第3節.転、第4節.結の形で進む。そして、最後の第4節が強い盛上がりを伴う主張点である。

 じっと彼女の歌を聴いていると、次第に目頭が熱くなる。

 私は、洞爺湖サミットのアトラクションか、晩餐会の時、倍賞千恵子に「オホーツクの舟唄」を歌ってもらえば良かったのにとつくづく感じた。プーチン首相を除き、心ある首脳は日本人の切ない想いを彼女の歌から汲み取ってくれたであろう。それは、知性に溢れた立派な外交になるのだが。

(全て敬称略)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「万景峰92」の入港に反対 | トップ | 御巣鷹の日航機墜落事故から... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書・映画・音楽」カテゴリの最新記事