陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

迷走を続ける日本の国防体制

2012-02-09 14:42:36 | 国防関連
 一川<素人>前防衛相に続いて、資質無き田中直紀防衛相(71)の任命、野田<どぜう>首相の国家観欠落にただ呆れるのみである。国防意識が稀薄な<どぜう>首相、彼を間接的に選出したのは間違い無く国民であり、それは大多数の国民が国家観を喪失している証左ではあるまいか。

 田中直紀参議院議員は、2008年まで自民党に所属し、無為にその任期を過ごして来たのだろう。自民党時代、また民主党に移って4年間、併せて25年もの間国会議員として国防・安全保障問題に関し具体的な意見を持っていたわけでは無く、田中真紀子議員の夫であるとしか私は理解していなかった。

 今年1月初旬に、一川前防衛相と交代して以来、衆議院予算委員会では答弁の曖昧さ、あるいは無責任に予算委員会から失踪するなど、奇矯な振る舞いで人格さえ疑われ、<コーヒー>大臣と言う汚名を頂戴する始末だ。

 外交と国防は密接な関係を持つわけだが、心ある防衛省官僚はこの事態に大きな危惧の念を持って当然である。

外務、防衛、広がる亀裂
2012.2.8 22:13

 米軍再編をめぐる日米両政府間の見直し協議は、外務省が終始議論をリードする形で進められた。防衛省が後手に回った理由は、一川保夫、田中直紀の新旧防衛相が素人だったことが大きい。外務、防衛両省の亀裂がこれ以上広がれば安全保障上の損失は計り知れない。(坂井広志、斉藤太郎)

 「日米合意が前提ですが、お互い事情が生じましたね。進め方を考え直しませんか?」

 昨年12月19日、玄葉光一郎外相は、米ワシントンの国務省で、クリントン国務長官に米軍普天間飛行場移設問題と在沖縄海兵隊のグアム移転の切り離しについてこう提案した。

 1週間前の12月12日、米上下両院は在沖縄海兵隊のグアム移転関連費の全額削除で合意した。「普天間移設が膠(こう)着(ちゃく)すればグアム移転も頓挫しかねない」と業を煮やしていたクリントン氏はこの提案に飛びついた。

 このような経緯から外務省は国防総省との協議までも主導してきた。玄葉氏は周囲にこう胸を張る。

 「普天間の固定化懸念が強まったといわれるが、普天間の名護市辺野古移設と海兵隊が沖縄に1万人残ることの2点はピン留めして議論してきたんだ」

 とはいえ、米軍再編でもっとも重要なのは抑止力の向上だ。防衛省が役割を果たさなければ将来に禍根を残す。しかも「蚊帳の外」に置かれた原因が閣僚の資質に起因するだけに問題は深刻だ。
 にもかかわらず田中直紀防衛相は現実を糊(こ)塗(と)するのに躍起だった。

 「私が防衛相に着任してからしっかりコミットし、指示もしてます!」

 田中氏は8日の参院予算委員会で協議への関与を問われ、力強く答えた。2日前に同じ委員会で「協議がこれから始まると事務方から報告を受けた」とノータッチだったと認めたことはすっかりお忘れのようだ。

 野田佳彦首相も予算委員会で玄葉氏から逐次報告を受けたことを強調したが、「田中氏とも相談したのか」と問われると言葉を濁した。

 「防衛相本人とは直接的にはありません…」

 「安全保障の素人」を2代続けて押しつけられた防衛省では「外務省は手柄だけを取り、地元対策という厄介な仕事をこちらに押し付けるつもりか」(幹部)と不満が渦巻く。政務三役までもこう嘆いた。

 「早く田中氏を交代させないと防衛省が持たない」

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120208/plc12020822130029-n1.htm


 さて、Japan Business Press (JB Press)と言う興味深いWebがある。
http://jbpress.ismedia.jp/

そこには、ビジネスのみならず、外交や国防に関してユニークな論考が随時掲載されている。

 本日、森清勇氏の防衛省に関する論文が JB Press に掲載された。田中直紀防衛相についての批判に留まらず、自民党政権時代の防衛庁長官、防衛相のあり方に対しても鋭く持論を展開している。森氏は、元陸将補(昔で言えば、陸軍少将;国防問題に精通した現場経験者の一人)、長文であるが考えさせられること多く、是非一読願いたい。


無能・無知の防衛大臣が日本を滅亡させる
リーダー不在の状況は外国から格好の標的に
2012.02.09(木)
森 清勇

「防衛大臣がころころ代わってもいいほど、自衛隊はしっかりしているんですね」という皮肉をどこかで聞いた。しかし、教育・訓練に精励する自衛隊がしっかりしていても、バランス・オブ・パワーの国際社会で政治が無能では、肝心な時に機能しない恐れがある。

短命すぎる防衛大臣

 防衛庁発足(1954年)以来の長官は53年間に65人が任命され平均10カ月であった。国務大臣とはいえ(防衛庁)長官だから軽視されるので、(防衛省)大臣ともなれば重用されるに違いないと見る向きも多かった。

 しかるに防衛省(2007年)になって以降の大臣はたった5年間で既に10人で、さらに短命(平均6カ月余)である。

 大臣が省務・隊務を掌握する時間がなければ、問題の所在さえ分からず、解決のしようもない。普天間問題の膠着は首相の無理解にも原因があるが、安全保障上の立場からしっかり意見できる防衛大臣がいないことにより大きく起因している。

 新大臣が着任すると、初度視察と称して陸海空自衛隊の部隊回りが行われる。当然のことながら、視察を受ける部隊は予定の教育訓練を変更して対処することになる。

 現状のままを見たいと言われても、見せる側は節度ある状況を見せたいと思うし、整理整頓をはじめ対応準備に否応なく時間を割くことになる。

 自衛隊の本当の問題は部隊側にあるのではなく、短命大臣しか任命できない政治にある。部隊は任務遂行のために各種制約の中で最大限の努力をしているが、大臣が代わるごとに方針が変わるなどして前進するどころか、場合によっては後退さえしかねない。

 しかも、防衛大臣の政治力は押しなべて弱い。自衛隊が国家の存立に関わる名誉ある職業であり、尊敬に値するものであるという認知(具体的な施策)を隊員は期待している。

 しかるに、歴代大臣のほとんどはそうした根本に関わる施策を行うこともなく、国民の反応ばかりにあたふたする弊がある。

 こうして、自衛隊は政治がらみの、どちらかというと自衛隊に対してあまり肯定的でない国民世論に影響され、誇りも名誉も与えられないままである。退職自衛官が「元自衛隊員」と口外したがらない習性はこうしたところに淵源がある。

 3.11の災害発生時には公務員の一律給与削減が課題になっていた。

 菅直人首相(当時)は自衛隊派遣で朝令暮改したことに自責の念を感じたのか、多分に一時的な感情からであったのだろうが、隊員の給与は(議論されているような一律削減ではなく)防衛大臣と総務大臣が別途話し合うようにと指示した。

 その後大臣はともに代わり、すっかり忘れ去られているに違いない。

 自衛隊を並み以上に優遇せよと言うのではないが、全公務員の40%を占める自衛隊員は任務の性格上若くして定年になり、一般公務員とは画然とした差異がある。そうした不利が看過されてきたのも、大臣が腰を据えて施策に取り組めないことに関係ないとは言えないであろう。

士気低下させる大臣答弁

 今や65歳までの就職が一般的な流れの方向にある。しかるに、自衛隊は任務がら強靭な体力などを必要とするゆえをもって、若年隊員を組織の基本としている。

 すなわち、自衛隊員の大部分を占める兵員は2~3年ごとの任期制で、専門職に就く曹(下士官)や下級幹部は50代初め、中級幹部は50代半ば、上級幹部は60歳が現在の定年である。

 こうして多くの自衛官が、学童などを抱える最も重要な時期に定年のやむなきに至る。どこまでも国家の要請によって、若年退職を強いられているのである。

 この間に、その後の生活を保障するだけの施策が行われるか、そうでない場合は再就職の斡旋を行うのは国家の責務ではないだろうか。

 冷戦が終結した頃のことであるが、某全国紙が「防衛庁 750余名の天下り」と大々的に報じた。その横には防衛庁のフォント(字体)とは全く異なるべた記事で目立たないように「大蔵省15名」が並べられていた。一目瞭然の報道姿勢である。

 新聞が報道した名簿は確かに存在した。しかしそこには40代(当時)から50代前半で定年になった陸曹(下士官)から下級幹部の名前がずらりと記載されていた。

 仕事の多くは警備会社の警備員や損保会社の査定担当、あるいは市が運営する公園の管理要員などで、年俸はおおむね200万円前後である。

 “天下り”と称され問題視されるのは、外郭団体の長や関連企業の役員待遇で、個室があり車と秘書も付くのが常識とされていた時代である。どうして、若年退職した、しかも高々年俸200万円前後の待遇を天下りと称するのか。

 国会で質問された防衛庁長官は腰抜けで、官僚が準備した「調査して報告します」と答弁するのを常としてきた。これでは、国民は質問者の意図通り、「防衛庁は大勢の天下りを行っている」と受け止めるであろう。

 こうした折も折、国土交通省の事務次官がまさしく「天下って」某企業に行くことになっていたことについて聞かれた扇千景国交大臣(当時)は、平然と「当人の能力が評価されて請われたもので、人材活用で天下りではなく何も問題はない」と明瞭に答弁し、質問者は黙せざるを得なかった一例である。

 間もなく退職する身であった私は、こんな大臣が防衛庁長官でいてくれたならば、自衛隊の在り様も全く異なっていたに違いない、とつくづく感じ入ったものである。

 歴代長官の答弁は天下り問題ばかりでなく、訓練事故や調達事案などでも「再調査いたします」「さらに精査して後日報告致します」ばかりで、自衛隊の特性に触れて質問者や国民に実態を知らせるなど、正面から堂々と答える大臣はほとんどいなかった。

 闇雲に引き下がると、再調査などが必要となり、組織はがたがたときしみを生じ、士気低下させること甚だしい。

自衛隊の現状

 自衛隊は不断に精強でなければ、国民の負託に応えることができない。しかるに、自衛隊の最高指揮官である総理を観閲官として迎えた航空観閲式(2011年10月、百里基地)では、石油価格の高騰による燃料不足で参加機数が30%も削減された。訓練の成果を存分に披露すべき場においてさえ、思うに任せない状況に陥っている。

 訓練こそが使命の自衛隊であるから、最小限の居住環境に我慢してきたが、今では営舎(修繕)費なども削減され、士気の根源にまでも影響が及んでいると聞く。

 人員・装備・訓練の劣勢、さらには居住環境の劣悪を辛うじて教育で補填していたのが従来の自衛隊である。事実、自衛隊の実務は国際平和協力活動が任務化されて以降はPKOばかりでなく、国際緊急援助(災害派遣)活動なども頻繁になり、間口がぐっと広がった。

 漱石は小説『それから』で、日露戦争に勝って以降の日本が「あらゆる方面に向かって奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ」と述懐している。今の日本もそうであり、そのしわ寄せが自衛隊のいろいろな面に出ている。

 また「牛と競争する蛙と同じで、腹が裂けるよ」とも漱石は嘆くが、軍拡著しい中露を相手にする日本そのものではないだろうか。奥行きがなくなり、災害派遣には役立っても本来の国防では機能しない恐れすらある。

 自衛隊の実質的な予算は据え置きどころか削減続きで隊員がまず減らされ、他方で燃料の高騰は訓練練度の低下につながり、防衛生産は停滞し、補給部品も整備・修理部品も底をついているものさえ出来していると聞く。

 たまたま、子ども手当が増えたために自衛隊の総枠はわずかながら増大したことがあったが、財務省などは自衛隊の予算を増大したと平気の平左で喧伝する無神経さである。

 自衛隊が行う教育は、自衛隊の装備にかかる技術教育や行動に関る専門教育もあるが、もっと基本にあるのはシビリアンコントロール下の自衛隊であることや日本の歴史・伝統とそれに基づく愛国心の涵養などである。

 そもそも、どんな歴史観を持とうと個人の自由である。しかし、組織の性質上、国軍に相当する自衛隊は歴史や文化・伝統を包含する価値体系(一般には国体と言われる)を擁護する存在であり、日本国を愛する心が根底に多少なりともなければ任務が務まらない。

 教育はそうした方向にベクトルを向けるように行われるのは当然であるが、田母神論文問題以降はシビリアンコントロールの名の下に「思想・信条侵害」の恐れさえ指摘される介入があるとも仄聞する。組織の根幹にかかわる問題で、軽視できない。

国防を疎かにしてきた民主党

 国際社会の現実を眺めると、依然としてバランス・オブ・パワー(勢力均衡)で世界が動いていることが分かる。近代以降の日本を観てもそうであるが、最高指導者は軍事の理解なしに国家の運営ができるはずもない。

 総理は武力集団としての自衛隊の最高指揮官であり、防衛大臣は首相の補佐者で実質上の自衛隊指揮官である。ともに権力を握っている。

 この権力は、極論すれば国家の存亡に関わるものであり、また命令一つで国民を死地にやることもできる権力である。こうした権力を保有する大臣が、軍事の素人だから国民目線でシビリアンコントロールができる(一川保夫・前防衛大臣)などと冗談にも言うべきではない。

 戦後の日本ほど、国防を疎かにしている国はない。憲法に国軍の規定がないどころか、戦争放棄条項さえあって、国防を基底にする安全保障政策を立案する国防省と、その下に行動する国防軍も存在しない。現在の防衛省は自衛隊の管理運営でしかなく、国家の安全保障からは程遠い。

 民主党は自衛隊反対の議員さえいることもあって安全保障に対する意識が希薄で、自衛隊を忌避さえしてきた政党である。

 防衛問題に真剣に取り組んできた議員も少なく、防衛大臣を適材適所で指名しようにもできるはずもなく、派閥絡みや当選回数・年功序列などの党内事情から指名されたに過ぎない。

 現在の田中直紀大臣に至っては就任以来の発言を閲する限り、普天間に関わる問題どころか、発足当時の警察予備隊を「警察予備軍」と言うほどで、防衛省・自衛隊があまりにも分かっていない。他は推して知るべし、防衛政策の進展など期待できそうもない。

 このように防衛に関するいろはの「い」も知らない議員が、ある日突然、首相や防衛大臣に就任しては国政を混乱させている。

 いずれは防衛大臣になることを予期して、真摯に研究し備えてきたというならば良しともしようが、多くの場合そうではないから列国の当該大臣と胸襟を開いた話などできるはずもない。

首相・防衛大臣に必要な国家目線

 大臣に就任することにのみ意義を見出しているのではないだろうか。なぜならば、就任直後はもちろん、その後の言動も「防衛大臣」として、また「国務大臣」として相応しくない発言があまりに多すぎる。

 任命責権者である総理が言う適材適所が本当であるならば、所掌に関わる大まかなことは承知して任に就くはずである。

 しかるに、着任早々から現実に反する発言を行ってはマスコミなどの批判を受け、すぐに訂正する、あるいは誤解も甚だしい言説を平気で行い国民の批判を受ける始末である。

 シビリアンコントロールについても、沖縄の現状についても、従来の経緯や事務当局の考えなどを承知したうえで、国家・国民に益する策はどれか、同盟の維持と国家の存続・名誉をどう塩梅させるかなど、より高い立場から考究し決断するなど、政治しか解決できないことを正道に乗せる勇気と実行こそが大臣には求められている。

 大臣となる人が、従来、どれほど防衛や安全保障に関わってきたか、すなわち知見の深さは、統御される防衛省・自衛隊にとっては軽視できない。

 一川氏の大臣としての品格や識見・力量が疑われていたゆえに更迭を歓迎されたが、再び無知識・失言大臣の登場で、その威厳は着任早々から吹けば飛ぶようにしか見られていないとも仄聞する。

 武装集団である警察との対比で言えば、警察は時の政権を支えるが、自衛隊は国家の体制を支える任務に服するというのが国際通念である。すなわち、警察は政体を、国軍的立場にある自衛隊は国体を支えるわけである。言うまでもなく、政党をも乗り越える立場に立って国益を最大限に考えるのが国務大臣たる防衛大臣である。

 必要なのは現在の国民目線ではなく、歴史と伝統を踏まえた国家目線であり、日本国家に対する深い理解が必要である。着任早々だから失言も許される、などと考えるのは甘えでしかない。

 防衛は外国との関係であり、大臣の言動や一挙手一投足を関心ある外国はしっかり見定め、「隙あらば」と虎視眈々と睨んでいる。そのことは、3.11で自衛隊が災害派遣に動員された直後の周辺国の動きでも明らかであろう。

 首相や防衛大臣にこうした国際社会の状況がほとんど見えていないようで、心もとない限りである。少なくも、何らかの形で(軍務と言いたいが)隊務に通じた議員が首相や防衛大臣にはなるべきであろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34486

森 清勇 Seiyu Mori星槎大学非常勤講師
防衛大学校卒(6期、陸上)、京都大学大学院修士課程修了(核融合専攻)、米陸軍武器学校上級課程留学、陸幕調査部調査3班長、方面武器隊長(東北方面隊)、北海道地区補給処副処長、平成6年陸将補で退官。
その後、(株)日本製鋼所顧問で10年間勤務、現在・星槎大学非常勤講師。
また、平成22(2010)年3月までの5年間にわたり、全国防衛協会連合会事務局で機関紙「防衛協会会報」を編集(『会報紹介(リンク)』中の「ニュースの目」「この人に聞く」「内外の動き」「図書紹介」など執筆) 。
著書:『外務省の大罪』(単著)、『「国を守る」とはどういうことか』(共著)
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