Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

記憶力

2012年08月03日 | Weblog

              

先だって亡くなったJinさんが、彼の書きかけた「私の履歴書」を残していった。
彼の子供の頃から働き盛りの40代ころまでで、彼の確かな記憶力には感心
させられたのだが、さて自分はどうか・・・?

終戦の年Edは4才だった。空襲が最も激しかったころは、まだ3才半だったか
ら、母親か上の姉に抱かさって逃げまどっていたに違いないのだが、落ちてく
る焼夷弾とか街が焼ける様子とか、防空壕などの記憶は無い。

戦争の記憶は、もう少し大きくなってから大人の話を聞いたり、焼け跡や赤土
の防空壕、コンクリート壁に残された機銃掃射跡や六角形の焼夷弾跡をみて、
戦争の爪痕として自分の記憶に残った。

定かではないが、Edの最も幼いころの記憶は多分5才頃、痩せて背の高い男
が大声で「早く出て行け!」と怒鳴っている足元で、母親にしがみついてビービ
―泣いている自分の姿である。

後から考えて、あれは住んでいた家を大家か債権者に追い立てられていたの
だろう。それから暫く経って、我が家は焼け野原にポツンと一軒粗末なバラック
を建てて移り住んだ。Edが小学校に入学する少し前だったと思う。

                                 

衣食住すべてが足りない貧しい中、それでも雑草のように育ち、病気一つしな
いで学校を終えた。

最終学歴は短大だったから20才で働き始めた。現在の小松ゼノアの前身で
ある古い貧乏会社で従業員は1000人くらい、バイクのエンジン、農機具、軽
自動車などの製造・販売、航空機のエンジン・オーバーホールなどが生業だっ
た。

毎日、残業に次ぐ残業でカツカツ食える程度の安給料だった、結婚して5年ほ
どした頃、ついにカミサンが音を上げた。これじゃあ家族4人食べていけない、
どこかもっと好いところへ転職して欲しい!

29歳のとき初めて外資の会社に転職した。日本ブラウン・ボべり(株)という
スイスの重電機・産業機械メーカーの日本支社だった。

この会社のお蔭でEdは”聞いて話す”英語というものを、OJTで身に付けた。
給料もこれまでの倍以上になり、ボーナスを含めた年収は3倍になった。
戦後25年ころの日本企業の給与レベルは未だ外国企業と比べて格段に低か
ったのだ。

Edが若かったこともあり、BBCでは上司、先輩からとても良くしてもらった。
全てが順調に周り始め、仕事が毎日楽しくて仕方なかった頃で、Edにとっては
人生の中で最も青春を謳歌していた時代だったかもしれない。

空を鳥のように飛ぶ夢を良く見たのは、このころである^^!

もうあれから40年も経つのに、BBCで一緒に働いた人の名前は殆ど全員憶え
ている。記憶力のないEdにしては何とも不思議な気さえするのだけれど・・・

Mr.フルッキガ-、Mrエッター、Mr.ビンダー、岡田さん、並木さん(鬼籍)、
中井さん、赤岩さん、伊藤さん、黄さん、増沢さん、村越さん、湯浅さん、柴崎さん、
寺村さん、加藤さん、喜多さん、白鳥さん、佐藤さん、井上さん・・・

その後、他社との合併で社名はセアトBBCに変わってしまったから、会社が存
続しているか否かもわからない。一緒に働いた皆さんは今も健在だろうか・・・

            



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