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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

武田勝彦「『ズーイ』について」角川文庫版「フラニーとズーイ」解説所収

2019-08-25 10:47:21 | 参考文献
 「ズーイ」(その記事を参照してください)について、著者が関心を持った以下の三点について、かなり主観的な意見を述べているだけなので、いわゆる「作品解説」にはなっていません。

<神秘小説と愛の小説>
 サリンジャーが異例のまえがき(実際は、作中でフラニーとズーイにとっての次兄(長兄はシーモァ)で作家のバディがこの話を語る形になっているので、バディの書いたまえがき)で述べているこの作品が「家庭映画」であるという主張に対して、映画化やテレビ番組化などに容易に対応可能な対話中心で空間的飛躍も少ない(自宅の風呂場と居間だけの、二幕物で戯曲化できます)ことを指摘しています。また、この作品が「神秘な物語」ではなく「愛の物語」であると述べているのは、読者や評論家へのサリンジャーの弁明であるとしています。また、原文の「Story」にこだわりを見せて、訳者が選んだ「神秘な物語」ではなく「神秘小説」で、「愛の物語」ではなく「愛の小説」であると主張しています。作者は、「物語」というタームに、「今昔物語」や「源氏物語」のようなストーリー性の高いもののイメージを持っているようです。

<象徴主義と前衛的技法のぼかし>
 サリンジャーの創作技法が直線的ではなく、抽象性が高まっていることを幾つかの例をあげて示しています。しかし、作家がその円熟期にレトリックが高まるのは当然で、サリンジャーのように職業的作家を志向していない(途中までは彼も目指していました)場合は、芸術性を高めるために前衛的になるのはやむを得ないことです。たとえ、そのために、大半の読者や評論家が付いていけないとしても、それは仕方がありません。ましてや、サリンジャーの場合、「有名作家生活の煩わしさ」をいやというほど経験(おそらく世界でも他に類を見ないほどです)し、生活には困らない印税(主に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のものです)が一生入り続けるのですから、生来の内向的な性格も相まって、「自分を理解しない(あるいは理解しようとしない)人たちとの関係を断ち切って、「自分を理解してくれる人たち」とだけの穏やかな生活を望んだのもまったく無理もありません。

<芸術的主張>
 ズーイが、バディやシーモァの力を借りて、フラニーに悟らせた「神の女優になる」ということは、サリンジャー自身の芸術的主張であるとしています。それは、「芸術家が経済的に金を得るために創作したり、読者や観衆に媚びている状態で完全な作品を生み出すことができない」ということだとしています。これは、前述したように、すでに経済的に成功し、こころない周囲の人たち(特に読者や評論家など)と決別したサリンジャーでなければ、できないことなのかもしれません。








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