現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

繁尾 久「内なる真実はいずこへ」サリンジャー文学の世界

2019-08-16 11:14:23 | 参考文献
 サリンジャー作品の翻訳者による、主に登場人物にフォーカスした評論です。
 以下の6つのセクションに分かれていますが、相互の関連度は低く、それぞれ単体の短い評論として読んだ方がいいでしょう。

1.サリンジャー作品の初期短編から、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を経て、「グラス家サーガ」に至る作品世界について概観し、サリンジャーに影響を与えたと思えるアメリカ文学や古典にも触れています。かなり教養主義的(日本では1970年ごろに没落したと言われています)な文章になっています(サリンジャー作品についてはそれぞれの記事を参照してください)。

2.自選短編集「九つの物語」の基調が、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在への導入」にあるとして、個々の作品にそって説明しています。そして、「このような探索は必然的に疎外と孤独の意識を伴う」として、「サリンジャーの主人公たちは、いずれも彼ら自身のあらがいの不条理に気づいていない」としています。それはそのとおりなのですが、サリンジャー自身は気づいていて(この時点では半分無意識かもしれませんが)、「疎外と孤独」を受け入れても、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在」に忠実に生きようとしていたのだと思われます。

3.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公であるホールデン・コールフィールドについて分析し、第一のレベルとして表面的な非行や成績不良や偽悪的な態度、第二のレベルとしてすこぶる純粋な優しい面、第三のレベルとしてもろさや幼児性をあげています。要約すると、表面的には不良ぶっているが、本当はいい子で、でも、脆弱で建設的でないと見ています。それはその通りなのですが、著者はそれを個人的な問題(個人の弱さ)ととらえ、社会的な問題から生じているとの視点が決定的に欠けています。この評論は、初めは1970年に雑誌に発表され1971年に加筆されたようですが、当時著者は46、7歳で大学(発表した雑誌が「三田文学」なので、慶応義塾大学か?)の教師だったと思われますが、70年安保闘争敗北後の精神的に荒涼としていたキャンパスの学生たちがまるで見えていなかったのでしょう。あるいは、彼の周辺の学生たちだけは、いまだに教養主義の世界にどっぷり浸っていたのかもしれません。

4.「フラニー」と「ズーイ」について、その背後にある精神世界について、豊富な知識をもとに解説しているので、非常に参考になります。特に、ズーイが、今は亡き長兄シーモァや遠く離れて暮らす次兄バディの精神的な力を借りて、フラニーを救済する過程の説明は非常に正確で説得力があり納得させられました。

5.「グラス家サーガ」におけるシーモァの中心的な立場と時間を遡行する形(一般的なサーガとは逆方向)で書かれている謎について言及しています。最初の「バナナ魚にもってこいの日」でシーモァが自殺した時点で、サリンジャー自身が「グラス家サーガ」全体やシーモァ像を確立していなかったのではないかとの指摘は非常にもっともなのですが、書き手の立場で言わせてもらえば、その時(1948年)ははっきりしていなかったものの何かももやもやしたものがサリンジャーの中にあって、そのすべてが結実するのには17年もの月日が必要だったのではないでしょうか。著者が「テディ」をシーモァのプロトタイプ(試作品)と指摘している点は重要で、「テディ」を書いた時点(1953年)でシーモァ像が固まり、その時点で時間を遡行して書かれていく「グラス家サーガ」のスタイルが確立したのでしょう。そういった意味でも、最後の「ハプワース16,一九二四」(1965年)が、著者も含めて「七歳の子がこんなに長い文を書くなんて!」とか、「未来を自在に予見している超能力者」とかいって非難したり、「グラス家サーガ」の続編を求めたりするのは誤りだと思っています。7歳のシーモァ(正確には、7歳のシーモァ(精神)と46歳のバディ=サリンジャー(肉体)の合体)が完成形で、個人的には「グラス家サーガ」は完結しているのだと思っています。さて、2019年になって、サリンジャーの遺族が膨大な遺稿を出版する計画を発表しました。どのような物が現れるのか期待と不安(こちらの方が強いです)が入り混じった気分です。

6.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の影響を受けたと言われている(私も他の記事に書きました)庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズについて触れていますが、こちらの方をより高く評価しているのに驚愕しました。ある時代、ある国だけでなく、より普遍的な若者像(この文章が書かれた1970年前後では、アメリカではすでに古くなっていたでしょうし、日本でもそろそろ古くなり始めていたかもしれませんが、その後は韓国や中国のような高度経済成長をとげた国々(今だったら、インドやベトナムやインドネシア、将来的にはナイジェリアのようなアフリカ諸国)にいるホールデンのような現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることへのリアリティの希薄さ、社会への不適合など)に直面している若い世代)ではなく、薫ちゃんたちのような優等生(しかも教養主義のしっぽを引きずっている)の方が、大学教師には扱いやすいのでしょう。












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井上雄彦「リアル」

2019-08-16 08:42:26 | コミックス
 ご存知の通り、この作品は有名なコミックスなので、あらすじはここでは書きません。
 これを読んで、児童文学の出版状況に関して思ったことを書きます。
 この作品では、いろいろな事情で車いすバスケットに関わるようになった障害者たちとその周辺の健常者たちを、まさに題名通りにリアルに描いたものです。
 周到な取材をもとに、不定期な雑誌連載というマイペースな発表の仕方で、じっくりと描かれています。
 作者ならではのユーモアや迫力ある車いすバスケットのシーンも魅力ですが、障害、死、格差社会などの重いテーマを真っ向から描いています。
 こういったある意味まじめなかたい作品に一定の読者がついているのですから、児童文学の世界でもこういった作品がもっと出版されるべきだと思います。
 もちろん、こういう作品を自分のペースで発表できるのは、作者が「スラムダンク」や「バガボンド」といった超人気コミックスの作者だということも理由の一つでしょう。
 出版社への発言力の強さや経済的な余裕のおかげで、自分のやりたいことを自由にやれているのかもしれません。
 これは、児童文学の世界では、「ズッコケ」シリーズがヒットしている時の那須正幹も同じような状況でした。
 しかし、現実にこういった作品が出版されて、商売としても成立していることは事実なのです。
 また、この作品の特長として、本物のスポーツの質感がよく表れていることがあげられます。
 これはたんなる取材だけではなく、自分自身でプレーした経験がないとなかなか出せないなと思いました。
 作品から、実際の汗やにおいや雰囲気までが立ち上ってくる感じです。
 最近の児童文学(あるいはヤングアダルト作品)に多いお手軽な取材だけで書いた妙にさわやかなスポーツ物とは、一線を画しています。
 また、試合や練習のシーンが多いのも特徴的です。
 これは、男性を読者対象のメインとしているからかもしれません。
 少年漫画の世界では、人気が下がるとてこ入れのために試合や戦闘シーンを増やすのが一般的な手法です。
 例えば、代表的な野球漫画であるちばあきおの「キャプテン」や「プレイボール」も、だんだんに試合のシーンが増えていきました。
 もっとも、そのために自分の書きたい世界と実際の作品とのギャップに悩んだことが、彼の自殺の原因とも言われているので、そのへんのさじ加減は難しいのかもしれません。
 自分自身の体験や息子たちの様子を見ていた経験からしても、いつの時代も男の子たちは試合や戦闘のシーンを好むようです。
 この点でも、今の児童文学の出版社が出している、試合をめったにやらないスポーツ物や、迫力のある戦闘シーンのない「剣と魔法の世界」を描いたファンタジーなどは、いかにも女性好みで、ますます男の子の読者を減らしていきます。
「どうせ男の子たちは本を読まないから、そんな連中をもともと対象にしていない」と豪語していた女性編集者もかつていましたが、そういった本作りの姿勢が児童文学をますます女性に偏ったものにしているのでしょう。
 しかし、ライトノベルやコミックスやアニメやゲームの世界では、男の子たちをメインターゲットにした作品がたくさんある(むしろ多数派)のですから、児童文学でも工夫次第では「リアル」のような作品を出せるのではないでしょうか。
 そういった児童文学の書き手を育てないのは、出版社や編集者たちの怠慢だと思います。
 もっとも、別の記事で述べたように、今の印税の仕組みや出版状況ではエンターテインメントではない児童文学だけでは生活できないので、男性の文字表現者の才能が他の世界へ流れていっているのも事実でしょう。
 このところ「リアル」は休載されていたのですが、2019年になって再開されました。
 これからの展開が楽しみです。

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