サリンジャー作品の翻訳者による、主に登場人物にフォーカスした評論です。
以下の6つのセクションに分かれていますが、相互の関連度は低く、それぞれ単体の短い評論として読んだ方がいいでしょう。
1.サリンジャー作品の初期短編から、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を経て、「グラス家サーガ」に至る作品世界について概観し、サリンジャーに影響を与えたと思えるアメリカ文学や古典にも触れています。かなり教養主義的(日本では1970年ごろに没落したと言われています)な文章になっています(サリンジャー作品についてはそれぞれの記事を参照してください)。
2.自選短編集「九つの物語」の基調が、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在への導入」にあるとして、個々の作品にそって説明しています。そして、「このような探索は必然的に疎外と孤独の意識を伴う」として、「サリンジャーの主人公たちは、いずれも彼ら自身のあらがいの不条理に気づいていない」としています。それはそのとおりなのですが、サリンジャー自身は気づいていて(この時点では半分無意識かもしれませんが)、「疎外と孤独」を受け入れても、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在」に忠実に生きようとしていたのだと思われます。
3.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公であるホールデン・コールフィールドについて分析し、第一のレベルとして表面的な非行や成績不良や偽悪的な態度、第二のレベルとしてすこぶる純粋な優しい面、第三のレベルとしてもろさや幼児性をあげています。要約すると、表面的には不良ぶっているが、本当はいい子で、でも、脆弱で建設的でないと見ています。それはその通りなのですが、著者はそれを個人的な問題(個人の弱さ)ととらえ、社会的な問題から生じているとの視点が決定的に欠けています。この評論は、初めは1970年に雑誌に発表され1971年に加筆されたようですが、当時著者は46、7歳で大学(発表した雑誌が「三田文学」なので、慶応義塾大学か?)の教師だったと思われますが、70年安保闘争敗北後の精神的に荒涼としていたキャンパスの学生たちがまるで見えていなかったのでしょう。あるいは、彼の周辺の学生たちだけは、いまだに教養主義の世界にどっぷり浸っていたのかもしれません。
4.「フラニー」と「ズーイ」について、その背後にある精神世界について、豊富な知識をもとに解説しているので、非常に参考になります。特に、ズーイが、今は亡き長兄シーモァや遠く離れて暮らす次兄バディの精神的な力を借りて、フラニーを救済する過程の説明は非常に正確で説得力があり納得させられました。
5.「グラス家サーガ」におけるシーモァの中心的な立場と時間を遡行する形(一般的なサーガとは逆方向)で書かれている謎について言及しています。最初の「バナナ魚にもってこいの日」でシーモァが自殺した時点で、サリンジャー自身が「グラス家サーガ」全体やシーモァ像を確立していなかったのではないかとの指摘は非常にもっともなのですが、書き手の立場で言わせてもらえば、その時(1948年)ははっきりしていなかったものの何かももやもやしたものがサリンジャーの中にあって、そのすべてが結実するのには17年もの月日が必要だったのではないでしょうか。著者が「テディ」をシーモァのプロトタイプ(試作品)と指摘している点は重要で、「テディ」を書いた時点(1953年)でシーモァ像が固まり、その時点で時間を遡行して書かれていく「グラス家サーガ」のスタイルが確立したのでしょう。そういった意味でも、最後の「ハプワース16,一九二四」(1965年)が、著者も含めて「七歳の子がこんなに長い文を書くなんて!」とか、「未来を自在に予見している超能力者」とかいって非難したり、「グラス家サーガ」の続編を求めたりするのは誤りだと思っています。7歳のシーモァ(正確には、7歳のシーモァ(精神)と46歳のバディ=サリンジャー(肉体)の合体)が完成形で、個人的には「グラス家サーガ」は完結しているのだと思っています。さて、2019年になって、サリンジャーの遺族が膨大な遺稿を出版する計画を発表しました。どのような物が現れるのか期待と不安(こちらの方が強いです)が入り混じった気分です。
6.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の影響を受けたと言われている(私も他の記事に書きました)庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズについて触れていますが、こちらの方をより高く評価しているのに驚愕しました。ある時代、ある国だけでなく、より普遍的な若者像(この文章が書かれた1970年前後では、アメリカではすでに古くなっていたでしょうし、日本でもそろそろ古くなり始めていたかもしれませんが、その後は韓国や中国のような高度経済成長をとげた国々(今だったら、インドやベトナムやインドネシア、将来的にはナイジェリアのようなアフリカ諸国)にいるホールデンのような現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることへのリアリティの希薄さ、社会への不適合など)に直面している若い世代)ではなく、薫ちゃんたちのような優等生(しかも教養主義のしっぽを引きずっている)の方が、大学教師には扱いやすいのでしょう。
以下の6つのセクションに分かれていますが、相互の関連度は低く、それぞれ単体の短い評論として読んだ方がいいでしょう。
1.サリンジャー作品の初期短編から、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を経て、「グラス家サーガ」に至る作品世界について概観し、サリンジャーに影響を与えたと思えるアメリカ文学や古典にも触れています。かなり教養主義的(日本では1970年ごろに没落したと言われています)な文章になっています(サリンジャー作品についてはそれぞれの記事を参照してください)。
2.自選短編集「九つの物語」の基調が、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在への導入」にあるとして、個々の作品にそって説明しています。そして、「このような探索は必然的に疎外と孤独の意識を伴う」として、「サリンジャーの主人公たちは、いずれも彼ら自身のあらがいの不条理に気づいていない」としています。それはそのとおりなのですが、サリンジャー自身は気づいていて(この時点では半分無意識かもしれませんが)、「疎外と孤独」を受け入れても、「外なる虚妄の現象の背後にある真実あるいは美の存在」に忠実に生きようとしていたのだと思われます。
3.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公であるホールデン・コールフィールドについて分析し、第一のレベルとして表面的な非行や成績不良や偽悪的な態度、第二のレベルとしてすこぶる純粋な優しい面、第三のレベルとしてもろさや幼児性をあげています。要約すると、表面的には不良ぶっているが、本当はいい子で、でも、脆弱で建設的でないと見ています。それはその通りなのですが、著者はそれを個人的な問題(個人の弱さ)ととらえ、社会的な問題から生じているとの視点が決定的に欠けています。この評論は、初めは1970年に雑誌に発表され1971年に加筆されたようですが、当時著者は46、7歳で大学(発表した雑誌が「三田文学」なので、慶応義塾大学か?)の教師だったと思われますが、70年安保闘争敗北後の精神的に荒涼としていたキャンパスの学生たちがまるで見えていなかったのでしょう。あるいは、彼の周辺の学生たちだけは、いまだに教養主義の世界にどっぷり浸っていたのかもしれません。
4.「フラニー」と「ズーイ」について、その背後にある精神世界について、豊富な知識をもとに解説しているので、非常に参考になります。特に、ズーイが、今は亡き長兄シーモァや遠く離れて暮らす次兄バディの精神的な力を借りて、フラニーを救済する過程の説明は非常に正確で説得力があり納得させられました。
5.「グラス家サーガ」におけるシーモァの中心的な立場と時間を遡行する形(一般的なサーガとは逆方向)で書かれている謎について言及しています。最初の「バナナ魚にもってこいの日」でシーモァが自殺した時点で、サリンジャー自身が「グラス家サーガ」全体やシーモァ像を確立していなかったのではないかとの指摘は非常にもっともなのですが、書き手の立場で言わせてもらえば、その時(1948年)ははっきりしていなかったものの何かももやもやしたものがサリンジャーの中にあって、そのすべてが結実するのには17年もの月日が必要だったのではないでしょうか。著者が「テディ」をシーモァのプロトタイプ(試作品)と指摘している点は重要で、「テディ」を書いた時点(1953年)でシーモァ像が固まり、その時点で時間を遡行して書かれていく「グラス家サーガ」のスタイルが確立したのでしょう。そういった意味でも、最後の「ハプワース16,一九二四」(1965年)が、著者も含めて「七歳の子がこんなに長い文を書くなんて!」とか、「未来を自在に予見している超能力者」とかいって非難したり、「グラス家サーガ」の続編を求めたりするのは誤りだと思っています。7歳のシーモァ(正確には、7歳のシーモァ(精神)と46歳のバディ=サリンジャー(肉体)の合体)が完成形で、個人的には「グラス家サーガ」は完結しているのだと思っています。さて、2019年になって、サリンジャーの遺族が膨大な遺稿を出版する計画を発表しました。どのような物が現れるのか期待と不安(こちらの方が強いです)が入り混じった気分です。
6.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の影響を受けたと言われている(私も他の記事に書きました)庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズについて触れていますが、こちらの方をより高く評価しているのに驚愕しました。ある時代、ある国だけでなく、より普遍的な若者像(この文章が書かれた1970年前後では、アメリカではすでに古くなっていたでしょうし、日本でもそろそろ古くなり始めていたかもしれませんが、その後は韓国や中国のような高度経済成長をとげた国々(今だったら、インドやベトナムやインドネシア、将来的にはナイジェリアのようなアフリカ諸国)にいるホールデンのような現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることへのリアリティの希薄さ、社会への不適合など)に直面している若い世代)ではなく、薫ちゃんたちのような優等生(しかも教養主義のしっぽを引きずっている)の方が、大学教師には扱いやすいのでしょう。