現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

武田勝彦「『シーモア―序論』について」角川文庫版「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」解説所収

2019-08-27 10:34:16 | 参考文献
 サリンジャーの「シーモァ―序論」について、以下の三つの観点から解説しています。

<カリスマ的シーモァ>
 シーモァをグラス家七人兄妹のカリスマだとすることに、異論を唱える人は誰もいないでしょう。長兄で、兄妹の中で知的に一番すぐれていて、彼らの教育係(主に宗教書、思想書、文学書によるものですが、当時の教養主義的教育よりはより本質的な物を目指しています)を自ら任じていたので、兄妹たち(特に、バディ、ズーイ、フラニー)に対しては圧倒的な影響力を持っています。ブー=ブーは比較的シーモァの影響からフリーでしたし、双子のウォールトとウェイカーについてはあまり書かれていないのでわかりません。著者は、カリスマ的支配についての一般的定義を用いて、若者世代との親和性を述べています。その一例として、当時始まっていた新左翼系各派(特に革マル派と中核派)によるいわゆる内ゲバによるテロリズムについても触れていますが、大学の教員(本来はこれらの解決を図るための当事者であるべき人間です)であった著者が他人事のように書いているのを読むと、著者は本質的にはサリンジャーがその作品で否定しているようないわゆる「大人」であり、若者世代がどのようにサリンジャー作品を受容をしているかを正しくは理解できないだろうなあと思いました。

<正気と狂気>
 シーモァが精神分裂症(現在の用語では統合失調症)であったかどうかについては留保しています。ただし、バディ(=サリンジャー)や他の兄妹も含めて社会的不適応患者であったとしています。そして、彼らの「間欠的狂気」が、現代社会によって生み出されていると考えている点は非常に重要です。現在の精神科や心療内科の診断基準に照らし合わせると、少なくともシーモァとバディ(=サリンジャー)とフラニーは、双極性障害だった疑いがあります(シーモァはⅠ型で、あとの二人はおそらくⅡ型でしょう。双極性障害に関しては、関連する記事を参照してください)。ズーイとブー=ブーとウォールトはもっとバランスの取れたタイプなので、おそらく社会的不適応患者ではないでしょう(ウェイカーについてはほとんど書かれていないのでわかりません)。

<文学的姿勢>
 文学の大衆化において現代文学の生きのびる道を模索しているとの指摘は、非常に重要です。従来の教養主義の立場では、サリンジャーは通俗作家(今でいえばエンターテインメント作品の作家)としてとらえられています。この作品も、当時のアメリカではやっていた東洋趣味(禅や文学など)をいち早く取り入れたり、表現方法にも新味を加えた、一種の大衆迎合的作品ともいえると指摘しています。しかしながら、文学全体のエンターテインメント化が進んだ現在の読者には、この作品などは純文学そのもののように読まれることでしょう。同じように文学の大衆化において現代文学の生きのびる道を模索していると思えるのは、サリンジャー作品の翻訳も手がけている村上春樹ですが、彼の作品(特に最近のもの)はずっとエンターテインメント寄りです(だから、ノーベル文学賞がとれないのかもしれませんが)。
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