「初期短編物語群」というのは、角川文庫版「若者たち」に収録した作品を、訳者の鈴木武樹が便宜的に分類した以下の十一篇の事で、著者もそれに沿った形で解説を書いています。
「若者たち」、「エディに会いにけよ」、「こつはちゃんと」、「途切れた物語の心」、「ロウイス・タギトの長いお目見え」、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」、「イレイヌ」、「ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女」(それぞれの記事を参照してください)
著者は、そのうちの以下の六篇に詳しい解説をして、その中で他の作品に触れる形で全体をまとめています。
<若者たち>
著者は、主題、構成、登場人物、表現などにかなり詳細な分析をしています。
そして、よく言われる「処女作には作家の原形質とでもいうべきものが秘められている」ということが、サリンジャーにもあてはまるとしています。
このことは、私の乏しい創作経験だけでなく、親しい児童文学作家たちをデビューからずっと見続けてきた経験からも肯定できます。
サリンジャーの原形質を、著者の指摘をもとに整理してみると、以下のようになります。
主題:コミュニケーションの断絶。この作品ではパーティで主催者の女の子から紹介された、ともに異性にもてそうもない(そのために主催者は気を使って二人を引き合わせたのでしょう)若い男女の最後まで噛みあわない会話に表わされています。著者は、それをサリンジャーが周辺社会をシャットアウトしたり、作品を発表しなくなったことと結びつけています。「初期短編物語群」では、「エディに会いに行けよ」も同タイプの作品としています。
構成:一般的にはこの作品には構成らしい構成はないと言われていますが、著者はいわゆる「行動の模倣」や「事件の配列」としての構成はないが、サリンジャーの「外面的筋の変化」より「内面的な心理の動き」に重点を置いているので、「行間に秘められて展開していく主題の相対的な並行発展にこそ、この作品の構成の技法がある」と主張していますが、全くその通りだと思います。サリンジャーの作品には、その後「外面的筋の変化」もある作品(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)がその代表作でしょう)も書かれるようになりますが、それらも実際には「内面的な心理の動き」に重点が置かれています。さらに、1955年発表の「フラニー」(その記事を参照してください)以降は、「外面的筋の変化」は次第に姿を消していきます。
登場人物:「若者たち」の記事にも書きましたが、ここでは男女交際の現場(この作品では、主催者宅で開かれるダンスパーティですが、今の日本ではでは合コンや婚活パーティがそれにあたるでしょう)におけるもてない男女(いつの時代、どこの国でも、もてる男女は一握りで、彼らのようなもてない男女こそマジョリティなのです)の心の動きが心憎いほど巧みに描き出されています。その後も、サリンジャーは一貫して若い世代の男女の普遍的な「ある典型」を描き続けています。
表現:サリンジャーの文学的な最大の功績は、作品の中で若者言葉や若者文化を生きた形でそのまま提示したことでしょう。それは、作者がこの作品を書いた時にリアルタイムで若者(21歳)だったことに起因していますが、それを文学作品に昇華させる老成した部分も持ち合わせていたことがそれを可能にしました。このことは、世界中に夥しい追随者や模倣者を生みだしました。他の記事にも書きましたが、日本での一番有名な例は庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズでしょう。また、これも他の記事にも書きましたが、日本の児童文学作品にも大きな影響を与えました。
<こつはちゃんと>
著者は、この作品に落語的面白さを感じているようです。不器用な新兵がやがて予言通りに大佐になったのかどうかは、読者の判断にゆだねていますが、私の読みはこの作品の記事に書きましたので、そちらを参照してください。
<途切れた物語の心>
この作品(その記事を参照してください)は、実際には書かれなかった絶世の美女に対するラブストーリーの筋をいろいろと仮想し、しかし現実には平凡な女性と結婚するという話なのですが、こうした筋立ては創作経験者ならばほとんどが体験する(たいがいは馬鹿馬鹿しくなって完成しません)平凡なものなのですが、著者はかなり大仰にとらえていて(おそらく著者は実作体験があまりないのでしょう)東西の名作を引き合いに出して論じていますが、やや「贔屓の引き倒し」の感はぬぐえません。
また、著者の女性観、恋愛観があまりに古臭くて、現在の日本はもちろん、当時(1940年代)のアメリカの中産階級のそれとも大きな隔たりがあるように感じられます。
<ロウイス・タギトの長いお目見え>
著者はほとんどがあらすじを述べているだけなので、詳しくはこの作品の記事を参照してください。
ただし、ロウイスがシーモァの妻ミュリエルの原型であるとの指摘は重要です。
<イレイヌ>
著者は、この作品をこの短編集における一番の傑作と評して、その理由として、知的障害のある絶世の美女の結婚と瞬時の離婚、母、祖母に連なる家族の関係を見事に描いているとしています。
しかし、その具体的な記述の中には、五十年も昔に書かれた文章なので仕方がないですが、知的障碍者や女性に対する偏見が強く感じられて納得できない部分が多いです。
作品自体にも、そうした偏見はある(六十以上年も前にかれた作品なので仕方がないのですが)のですが、少なくとも彼女に適切な教育を受けさせなかった家族や学校関係者への批判的な視線は感じられます。
私自身は、この作品の評価がこの短編集の中で一番難しいと考えています(その記事を参照してください)。
<ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女>
著者は、ここにおいてサリンジャー作品の内容だけでなく技巧に優れた点を高く評価していますが、全く同感です(その記事を参照してください)。
以上のように、この解説では、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」については触れていません。
私自身の好みでは、そちらの方によりすぐれた作品が多いので、それぞれの記事を参照してください。
「若者たち」、「エディに会いにけよ」、「こつはちゃんと」、「途切れた物語の心」、「ロウイス・タギトの長いお目見え」、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」、「イレイヌ」、「ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女」(それぞれの記事を参照してください)
著者は、そのうちの以下の六篇に詳しい解説をして、その中で他の作品に触れる形で全体をまとめています。
<若者たち>
著者は、主題、構成、登場人物、表現などにかなり詳細な分析をしています。
そして、よく言われる「処女作には作家の原形質とでもいうべきものが秘められている」ということが、サリンジャーにもあてはまるとしています。
このことは、私の乏しい創作経験だけでなく、親しい児童文学作家たちをデビューからずっと見続けてきた経験からも肯定できます。
サリンジャーの原形質を、著者の指摘をもとに整理してみると、以下のようになります。
主題:コミュニケーションの断絶。この作品ではパーティで主催者の女の子から紹介された、ともに異性にもてそうもない(そのために主催者は気を使って二人を引き合わせたのでしょう)若い男女の最後まで噛みあわない会話に表わされています。著者は、それをサリンジャーが周辺社会をシャットアウトしたり、作品を発表しなくなったことと結びつけています。「初期短編物語群」では、「エディに会いに行けよ」も同タイプの作品としています。
構成:一般的にはこの作品には構成らしい構成はないと言われていますが、著者はいわゆる「行動の模倣」や「事件の配列」としての構成はないが、サリンジャーの「外面的筋の変化」より「内面的な心理の動き」に重点を置いているので、「行間に秘められて展開していく主題の相対的な並行発展にこそ、この作品の構成の技法がある」と主張していますが、全くその通りだと思います。サリンジャーの作品には、その後「外面的筋の変化」もある作品(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)がその代表作でしょう)も書かれるようになりますが、それらも実際には「内面的な心理の動き」に重点が置かれています。さらに、1955年発表の「フラニー」(その記事を参照してください)以降は、「外面的筋の変化」は次第に姿を消していきます。
登場人物:「若者たち」の記事にも書きましたが、ここでは男女交際の現場(この作品では、主催者宅で開かれるダンスパーティですが、今の日本ではでは合コンや婚活パーティがそれにあたるでしょう)におけるもてない男女(いつの時代、どこの国でも、もてる男女は一握りで、彼らのようなもてない男女こそマジョリティなのです)の心の動きが心憎いほど巧みに描き出されています。その後も、サリンジャーは一貫して若い世代の男女の普遍的な「ある典型」を描き続けています。
表現:サリンジャーの文学的な最大の功績は、作品の中で若者言葉や若者文化を生きた形でそのまま提示したことでしょう。それは、作者がこの作品を書いた時にリアルタイムで若者(21歳)だったことに起因していますが、それを文学作品に昇華させる老成した部分も持ち合わせていたことがそれを可能にしました。このことは、世界中に夥しい追随者や模倣者を生みだしました。他の記事にも書きましたが、日本での一番有名な例は庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズでしょう。また、これも他の記事にも書きましたが、日本の児童文学作品にも大きな影響を与えました。
<こつはちゃんと>
著者は、この作品に落語的面白さを感じているようです。不器用な新兵がやがて予言通りに大佐になったのかどうかは、読者の判断にゆだねていますが、私の読みはこの作品の記事に書きましたので、そちらを参照してください。
<途切れた物語の心>
この作品(その記事を参照してください)は、実際には書かれなかった絶世の美女に対するラブストーリーの筋をいろいろと仮想し、しかし現実には平凡な女性と結婚するという話なのですが、こうした筋立ては創作経験者ならばほとんどが体験する(たいがいは馬鹿馬鹿しくなって完成しません)平凡なものなのですが、著者はかなり大仰にとらえていて(おそらく著者は実作体験があまりないのでしょう)東西の名作を引き合いに出して論じていますが、やや「贔屓の引き倒し」の感はぬぐえません。
また、著者の女性観、恋愛観があまりに古臭くて、現在の日本はもちろん、当時(1940年代)のアメリカの中産階級のそれとも大きな隔たりがあるように感じられます。
<ロウイス・タギトの長いお目見え>
著者はほとんどがあらすじを述べているだけなので、詳しくはこの作品の記事を参照してください。
ただし、ロウイスがシーモァの妻ミュリエルの原型であるとの指摘は重要です。
<イレイヌ>
著者は、この作品をこの短編集における一番の傑作と評して、その理由として、知的障害のある絶世の美女の結婚と瞬時の離婚、母、祖母に連なる家族の関係を見事に描いているとしています。
しかし、その具体的な記述の中には、五十年も昔に書かれた文章なので仕方がないですが、知的障碍者や女性に対する偏見が強く感じられて納得できない部分が多いです。
作品自体にも、そうした偏見はある(六十以上年も前にかれた作品なので仕方がないのですが)のですが、少なくとも彼女に適切な教育を受けさせなかった家族や学校関係者への批判的な視線は感じられます。
私自身は、この作品の評価がこの短編集の中で一番難しいと考えています(その記事を参照してください)。
<ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女>
著者は、ここにおいてサリンジャー作品の内容だけでなく技巧に優れた点を高く評価していますが、全く同感です(その記事を参照してください)。
以上のように、この解説では、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」については触れていません。
私自身の好みでは、そちらの方によりすぐれた作品が多いので、それぞれの記事を参照してください。