現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

繁尾 久「グラス家の群像」サリンジャー文学の世界

2019-08-17 11:05:31 | 参考文献
 「グラス家の群像」と言えば、サリンジャーのグラス家サーガに登場する七人兄妹のことですが、実際には「フラニー」、「ズーイ」、「大工らよ、屋根の梁を上げよ」、「シーモァ ― 序章」、「ハプワース16,一九二四」に関する著者の読みだけが書かれているので、中心人物のシーモァを除くと、これらの作品に登場するフラニー、ズーイ、バディに関しては部分的な人物像が書かれていますが、その他のブー=ブー、ウォルト、ウェイカーには触れていません。
 以下の7つの章から構成されています。

1.1955年以降に書かれたサリンジャーの作品は、「フラニー」(1955年)、「ズーイ」(1957年)、「大工らよ、屋根の梁を上げよ」(1955年)、「シーモァ ― 序章」(1959年)、「ハプワース16,一九二四」(1965年)の五作だけで、すべてが「グラス家サーガ」です。以下の章で、著者はそれぞれの作品を再考しています。

2.「ズーイ」(前半部)と「フラニー」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、バディやシーモァが、それぞれが偶然出会った幼い女の子たち(純粋な魂の原形質の象徴としています)との出会いによって、自分たちがそうしたものを失ってしまったことを告白している」との指摘は非常に重要です。

3.「ズーイ」の(後半部)のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。

4.「大工らよ、屋根の梁を上げよ」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、結婚相手のミュリエルの少女時代が、シーモァの幼なじみの美少女シャーロット・メイヒューとうりふたつだったことを指摘しているのは重要です。

5.「シーモァ ― 序章」については、この作品がシーモァを中心とするそれまでのグラス家サーガに対する批判に対してのサリンジャーの弁明と、彼の文学宣言(世の中の風潮には関係なく、気ままに書いていく)と、シーモァに関する百科事典だとしています。

6.「ハプワース16,一九二四」については、いろいろな研究者による否定的な見解や同じような傾向を持った(仏教的なカルマと輪廻の法則に従った)三島由紀夫の「豊饒の海」を紹介しながら、「連作の構想を、六道輪廻の業と転生に求めたのは、作品の出来不出来は別にして現代文明のありように飽き足らなかったからではないだろうか」としています。

7.初期短編、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、「グラス家サーガ」と作風が大きく変化していったが、サリンジャーの本質は「無私の愛であり、虚偽への憎しみである」と結論付けているのは、非常に優れた指摘です。最後の「ハプワース16,一九二四」においての超人かつ密教的修行者のシーモァでさえも、キャンプ場の大人たちの欺瞞への強い憎しみを持つだけでなく、家族や弱者たちへの優しいまなざしを向けていることを、その根拠としてあげていますが、全くその通りだと思います。また、そんなシーモァが、美人のハッピー夫人には性的な悩みを抱えていることを指摘しているのも重要です。

 しかし、著者は、「神秘主義の装いの下に、また、主人公の自己矛盾にもかかわらず、サリンジャーの希求が相変わらず息づいている」と、考えつつも、「いつかまた、リング・ラードナー流のユーモアと、受け入れやすい優しさ、それに、マーク・トウェインばりの活力を、作品で表明してくれる日を期待したい」としています。
 要は、「また「九つの物語」や「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような作品を書いてね」ということなのでしょうが、こればかりはまったく書き手の気持ちを無視したない物ねだりにすぎません。
 サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の異常な大ヒットで、業界や評論家や研究者やマスコミやファンと称する輩たちの嫌な所をいっぱい見てしまったのでしょう。
 そんなところへ戻るくらいならば、「舌を噛み切って死にたい」気分(シーモァならばピストル自殺するかもしれませんが)なのは良くわかります。
 一方で、残念ながら、サリンジャーはシーモァではありません(あこがれはあるかもしれませんが)。
 バディのような年を取っていく肉体を持ち、しかも人一倍煩悩(ロリコンの傾向があって、美人にも弱い)も抱えています。
 そうした弱い人間が生きていくために、できるだけ自分を理解しない人間たちからは遠ざかって、理解してくれる人間だけとだけと付き合って、穏やかに暮らしていくことが、そんなに悪いことなのでしょうか。






 






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バージニア・リー・バートン「ちいさいおうち」

2019-08-17 08:29:38 | 作品論
 物語絵本の古典です。
 田舎の小さな丘の上に建てられた「ちいさいおうち」は、そこに住む人たちと田舎暮らしを楽しんでいました。
 前半は、田舎の美しい四季と楽しい暮らしが描かれています。
 ある日突然、それが変わります。
 開発の波です。
 広い道路がひかれて、馬車が自動車やトラックに変わります。
 路面電車が通り、高架鉄道ができ、さらには地下鉄までが通ります。
 野原の中の一軒家だった「ちいさいおうち」のまわりにも家が立ち並び、やがて高層ビル群に変わっていきます。
 それらに取り囲まれた「ちいさいおうち」は、やがて住む人もなく古びて痛んでいきます。
 それが、またある日突然、変わります。
 「ちいさいおうち」を建てた人の孫の孫の孫である女の人が登場したのです。
 「ちいさいおうち」は彼女によって都会から救い出され、元のような田舎の小さな丘に移設されました。
 「ちいさいおうち」は修理されてまた人が住むようになり、昔のように田舎の四季を楽しむようになります。
 この絵本から、いろいろなことを読み取ることができます。
 田舎暮らしと都会の比較。
 地方出身の人はよく引退すると故郷に戻られますが、そういった人々には「ちいさいおうち」の気持ちがよくわかることでしょう。
 私自身は、東京の下町育ちで今は自然の豊かなところで暮らしているので、逆に帰りたいのは都会のごみごみしたところ(例えば上野や池袋や新宿の繁華街)です。
 人の一生。
 この作品の前半の田舎暮らしは子ども時代、中盤の都会に発展するところは青春及び壮年時代、ラストの田舎に戻った後は老年時代に例えられるでしょう。
 変わらない価値。
 バートンは田舎の美しい四季にそれを求め、「ちいさいおうち」(おそらく石造り)もその象徴なのでしょう。
 日本の木造家屋ではこうはいきません。
 孫の孫の孫どころか、孫が住むのも怪しいものです。
 でも、地震や台風などの災害の多い日本では、家のスクラップアンドビルドもやむを得ないかもしれませんが。
 
ちいさいおうち
クリエーター情報なし
岩波書店

 
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