「ナイン・ストーリーズ」の解説自体はほとんどしていませんし、内容も特に目新しい物はないのですが、サリンジャー作品の翻訳の第一人者らしい視点で、サリンジャーらしさを紹介していて興味深い内容です。
まず、サリンジャー自身が、翻訳本に作品以外のいかなるもの(解説、著者略歴、著者近影など)を付けてはならないことを要求していることです。
本の出版が決まると、編集者からはこうした物が作者に要求されます。
こうした要求は、外向的な作者にとっては、なんでもありませんし、むしろ大好物で作品自体より張り切って用意する作家もたくさんいます。
特に、著者近影については、女性作家に限らず、若い時に撮った一番写真うつりのいい写真をいつまでも使い続ける作家が多いです。
しかし、サリンジャーのような内向的な作家にとっては、この要求は苦痛以外の何物でもなく、「作家は作品自体で勝負すべき」というかたくなな信念を持っています。
そうはいっても、こうした情報は、本を商品と考えた場合には、販促に必要なことは言うまでもありません。
サリンジャーといっても、若手のころは大手出版社に対しては拒み切れなかったようで、彼が1949年に「下のヨットのところで」(その記事を参照してください)を大手出版社の雑誌に掲載する時に編集者に送った「著者略歴」とそれを載せることを最後まで渋って嫌味たらたら書いた手紙を紹介しています。
著者は、それをこの文庫本に「あとがき」を付けた言い訳(サリンジャー自身だってやってるじゃない!)に、冗談交じりに使っています。
この「著者略歴」で著者が注目し、別の意味で私も興味を持ったのが最後の一文です。
「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」
著者は、この文章を作品に「非常に若い人たち」(「下のヨットのところで」のライオネル、「コネティカットのグラグラカカ父さん」のラモーナ、「バナナ魚にもってこいの日」のシビルたちのような幼児も含めて)が登場することを意味して、つまり素材としてだけ考えて、作品自体は「非常に若い人たち」に向けて書いているのではないとしています。
私はそう考えていません。
サリンジャーは、確かに「非常に若い人たち」を描いたのですが、それは大人たちのためではなく、そうした「非常に若い人たち」のために書いたのです。
そう、サリンジャーの本質は「児童文学者」なのです。
初めてそう言い切ってしまって、自分自身でも少し驚いていますが、いろいろな事が頭の中でつながって、すごくすっきりとした気分です。
その傍証としてあげられるのが、このあとがきの中で著者が紹介してくれているサリンジャーの別の言葉です。
「私の最良の友の何人かは子供だし、実を言うと最良の友といえば子供たちしかいない私なのである。あの私の本が彼らの手の届かぬ棚にしまわれるかと思うと、どうにも堪え難い思いである。」
これは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の子どもたちの閲覧を禁止する学校や地方(つまり大人たち)が、アメリカでは続出したためです。
このサリンジャーの言葉は、児童文学者のエーリヒ・ケストナーの詩「卑劣の発生」の次の一節、
「子供はかわいく素直で善良だ だが大人はまったく我慢できない 時としてそれが僕らすべての意気を阻喪させる」
と、ピタリとと重なります。
また、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の一種の禁書は、ケストナーの作品がナチス(大人たち)に焚書にされたことと二重写しになります。
ここでの「非常に若い人たち」というのは、単なる年齢区分ではありません。
ケストナーの言う「8歳から80歳までの子どもたち」や宮沢賢治の言う「アドレッセンス中葉」などと同じく、「精神的に非常に若い人たち」のことです。
そもそも「子ども」自体が近代になってから誕生ないし発見された観念であることは、アリエスや柄谷行人が指摘しています(関連する記事を参照してください)が、その考えを借りると「子ども」という観念を持ち続けている人間が年齢には関係なく「子ども」とか「非常に若い人たち」ということになるのではないでしょうか。
そう考えれば、31歳で自殺するシーモァよりも、7歳のサマーキャンプに参加しているシーモァの方が、人生の真実をつかまえた人間であることは不思議でもなんでもありません。
まあ、時空を軽々と超越できるシーモァのような超人ではないとしても(あこがれではありますが)、サリンジャーだけでなく真の児童文学者(例えば、ケストナーや宮沢賢治や神沢利子など)は、少なくとも作品世界の中では軽々と時空を飛び越えて見せます。
まず、サリンジャー自身が、翻訳本に作品以外のいかなるもの(解説、著者略歴、著者近影など)を付けてはならないことを要求していることです。
本の出版が決まると、編集者からはこうした物が作者に要求されます。
こうした要求は、外向的な作者にとっては、なんでもありませんし、むしろ大好物で作品自体より張り切って用意する作家もたくさんいます。
特に、著者近影については、女性作家に限らず、若い時に撮った一番写真うつりのいい写真をいつまでも使い続ける作家が多いです。
しかし、サリンジャーのような内向的な作家にとっては、この要求は苦痛以外の何物でもなく、「作家は作品自体で勝負すべき」というかたくなな信念を持っています。
そうはいっても、こうした情報は、本を商品と考えた場合には、販促に必要なことは言うまでもありません。
サリンジャーといっても、若手のころは大手出版社に対しては拒み切れなかったようで、彼が1949年に「下のヨットのところで」(その記事を参照してください)を大手出版社の雑誌に掲載する時に編集者に送った「著者略歴」とそれを載せることを最後まで渋って嫌味たらたら書いた手紙を紹介しています。
著者は、それをこの文庫本に「あとがき」を付けた言い訳(サリンジャー自身だってやってるじゃない!)に、冗談交じりに使っています。
この「著者略歴」で著者が注目し、別の意味で私も興味を持ったのが最後の一文です。
「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」
著者は、この文章を作品に「非常に若い人たち」(「下のヨットのところで」のライオネル、「コネティカットのグラグラカカ父さん」のラモーナ、「バナナ魚にもってこいの日」のシビルたちのような幼児も含めて)が登場することを意味して、つまり素材としてだけ考えて、作品自体は「非常に若い人たち」に向けて書いているのではないとしています。
私はそう考えていません。
サリンジャーは、確かに「非常に若い人たち」を描いたのですが、それは大人たちのためではなく、そうした「非常に若い人たち」のために書いたのです。
そう、サリンジャーの本質は「児童文学者」なのです。
初めてそう言い切ってしまって、自分自身でも少し驚いていますが、いろいろな事が頭の中でつながって、すごくすっきりとした気分です。
その傍証としてあげられるのが、このあとがきの中で著者が紹介してくれているサリンジャーの別の言葉です。
「私の最良の友の何人かは子供だし、実を言うと最良の友といえば子供たちしかいない私なのである。あの私の本が彼らの手の届かぬ棚にしまわれるかと思うと、どうにも堪え難い思いである。」
これは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の子どもたちの閲覧を禁止する学校や地方(つまり大人たち)が、アメリカでは続出したためです。
このサリンジャーの言葉は、児童文学者のエーリヒ・ケストナーの詩「卑劣の発生」の次の一節、
「子供はかわいく素直で善良だ だが大人はまったく我慢できない 時としてそれが僕らすべての意気を阻喪させる」
と、ピタリとと重なります。
また、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の一種の禁書は、ケストナーの作品がナチス(大人たち)に焚書にされたことと二重写しになります。
ここでの「非常に若い人たち」というのは、単なる年齢区分ではありません。
ケストナーの言う「8歳から80歳までの子どもたち」や宮沢賢治の言う「アドレッセンス中葉」などと同じく、「精神的に非常に若い人たち」のことです。
そもそも「子ども」自体が近代になってから誕生ないし発見された観念であることは、アリエスや柄谷行人が指摘しています(関連する記事を参照してください)が、その考えを借りると「子ども」という観念を持ち続けている人間が年齢には関係なく「子ども」とか「非常に若い人たち」ということになるのではないでしょうか。
そう考えれば、31歳で自殺するシーモァよりも、7歳のサマーキャンプに参加しているシーモァの方が、人生の真実をつかまえた人間であることは不思議でもなんでもありません。
まあ、時空を軽々と超越できるシーモァのような超人ではないとしても(あこがれではありますが)、サリンジャーだけでなく真の児童文学者(例えば、ケストナーや宮沢賢治や神沢利子など)は、少なくとも作品世界の中では軽々と時空を飛び越えて見せます。