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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ジャッジ

2016-11-15 08:15:30 | キンドル本
 主人公の所属している少年野球チームは、近隣の市の大会に参加しています。
 初めの試合で、主人公のチームにとって不利なジャッジが続きます。
 エースの得意なスローボールも、変化球と紛らわしいと禁止されてしまいます。
 主人公たちには、地元の相手チームに有利な、ホームタウンデシジョンのように思えます。
 監督の指示で、チームのみんなは不満を言わずにその逆境に耐えます。
 ジャッジのせいもあって、試合は相手チームがリードして進みます。
 しかし、その後に思いがけないジャッジがあります。
 それをきっかけに、主人公たちのチームは逆襲に転じます。
 試合の結果はどうなったでしょう?

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ジャッジ
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平野 厚


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松家神之「火山のふもとで」

2016-11-15 07:52:45 | 参考文献
 1982年に23歳だった「ぼく」が、尊敬する老建築家の設計事務所に勤めて、その「夏の家(夏場だけ北軽井沢と思われる避暑地に移転します)」でのひと夏の体験を、建築家の姪との恋愛や国立現代図書館の設計コンペの準備と絡めて描いています。
 本の扉に書かれた惹句には、「小説を読むよろこびがひとつひとつのディテールに満ちあふれた」とありますが、たしかにディテールの部分の描写は優れていますし、主題である建築だけでなく作者の動植物や芸術などに対する知識も豊富でなかなか読ませます。
 もともと「神は細部に宿る」というのは建築関係のことばなのですが、この作品もそれをめざしている感じがします。
 ただあまりに細部にこだわりすぎてストーリーから逸脱して、読むのが退屈に感じられる個所も散見されます。
 また、ストーリーがそれらの細部を支えるだけの骨太さに欠けていて、小説を読む楽しさを阻害しています。
 内容も文章もとても上品なのですが、どこかスノッブな印象を受けてしまうのは、書き方に問題があると思われます。
 二十三歳の「ぼく」の一人称で書かれているのですが、五十代の作者あるいはラストに登場する二十九年後の「ぼく」の視点が表面に出るところが多く、若者らしい新鮮な発見というよりは老成した人物のうんちく話という感がしてしまいます。
 また、結婚や恋愛に対するジェンダー観(結婚対象者を親や叔父が決め当人たちもそれに縛られています)が、とても古めかしいのも気になりました。
 私はこの作品世界とほぼ同じ1981年に結婚しているのですが、いくらなんでも当時の結婚や恋愛はもっと自由でした。
 たかが小さな設計事務所のオーナーや老舗とはいえ和菓子屋程度の家で、こんな古めかしい女性像や結婚観は不自然だし、それに唯々諾々としたがっている主人公たちのひ弱さが気になります。
 また、地の文章で、男性所員はすべて苗字に「さん」づけなのに、二人の女性所員は「ぼく」よりも年上にもかかわらず下の名前を呼び捨てにしているのも、非常に恣意的な感じを受けて不快でした。
 案の定、「ぼく」はそのうちの一人と「夏の家」で結ばれるも事情があって別れ、いきさつは書かれていませんが二十九年後の「ぼく」はもう一人と結婚しています。
 全体的に、作者が知っていることや調べたことをすべて作品に盛り込もうとして、肝心のストーリーが弱くなってしまったようです。
 この作品全体を支えるはずの国立現代図書館の設計コンペも、老建築家の脳梗塞の発病という形であいまい化され、それにつれて「ぼく」の恋愛もなし崩し的に終了してしまい、残されたのは避暑地の思い出だけというのでは、作者と同世代の読者のノスタルジーは満足させても、真の文学とは言えません。
 それにしても、「ぼく」のラッキーな経験(希望の設計事務所に簡単に就職でき、有能でやさしい先輩たちに十分な指導を受けながら責任のある仕事にも携われ、ひと夏の恋愛体験までできます)は、過酷な就職活動や劣悪な非正規などの労働を余儀なくされている現代の若者たちにとっては、夢の中の世界としか思えないでしょう。
 このような芸術家や職人(この作品の建築家の場合はその両方を兼ね備えています)の世界を描いた作品は児童文学にもありますが、最近の作品(例えば、本多明の「幸子の庭」など)はその独特の世界を書くことに汲々として、肝心の物語や人物像が弱くなっている傾向があります。
 かつては、岩崎京子の「花咲か」や今西祐行の「肥後の石工」のような優れた作品がありましたが、やはりこういった作品世界を描くときには、対象を十分に客体化できるだけの作者の成熟度が求められるようです。
 本多の場合もこの松家の場合もこれらの作品がデビュー作で、作者の年齢は十分に高いのですが、作家としての経験が不足しているように思われます。

火山のふもとで
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新潮社
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絵本における文と絵の関係

2016-11-14 09:03:25 | 考察
 児童文学の同人誌の合評会に参加していると、絵本のテキスト(文)が提出されることがあります。
 一般的に、同人誌に参加しているメンバーは、文章の書き手ばかりで、絵描きさんがいないケースが多いでしょう。 
 そんな時、提出されたテキストをどのように評価するかはなかなか難しいです。
 絵本の製作過程はいろいろあるのでしょうが、大きく分けると次の三通りになると思います。
 1.絵も文も一人で書いている(一見理想的に思えますが、文章と絵の書き手が別の場合は、二人の才能がお互いに触発し合ってて素晴らしい作品を生み出すことも多いので、一概には言えません)
 2.、文章が先にあって、絵描きさんがそれに触発された絵をつける(この場合、文章を書いた人に「文」の代わりに「作」と書かれていることが多いようですが、出版社によっても違い、必ずしも統一はされていないようです)
 3.先に絵ができていて、それに別の人が文章をつける場合(あまり多くないと思います)
 同人誌で合評するのは2のケースがほとんどなので、絵のない状態のテキストを読みながら一所懸命にその場面を想像するのですが、絵心がないのかあまりうまくいきません。
 そんな時、合評でよく出る意見が「絵がついたらきっといい作品になる」というものですが、みんながイメージしている場面はバラバラでしょうから、はっきりいってあてになりません。
 そうはいっても、あまり文章の方でその場面を説明するようなものを書くと、実際に絵がついたときには
過剰説明になってしまって、作品の完成度としてはいまひとつでしょう。
 そんな時、テキストの提出者が、テキスト以外に場面を説明する文章をカッコつきなどでつけることがあります。
 確かに、この方法では、作者がイメージした場面が分かるので、批評はしやすいかもしれません。
 ただし、こういった指定は、絵描きさんの自由な発想を阻害する恐れがあるので、絵描きさんに手渡す時はカットしたほうがいいでしょう。


絵本の書き方―おはなし作りのAからZ教えます (朝日文庫)
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朝日新聞社



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割れた爪

2016-11-14 08:22:19 | キンドル本
 主人公は、超中学級の少年投手です。
 リトルリーグやシニアリーグでも、エースとして大活躍しました。
 しかし、連投を強要する監督と対立して、チームを辞めさせられてしまいました。
 主人公は、将来甲子園で活躍して、プロ野球の選手になるのが夢です。
 そのためには、野球の名門高校のスカウトの目に留まらなければなりません。
 名門高校のセレクションに備えて、毎日自主練を続けています。
 リトルリーグ時代にバッテリーを組んだキャッチャーが、練習を手伝ってくれています。
 その子は、主人公が進もうとしている学校に、中学から通っています。
 しかし、マスコミの批判によって、その高校のセレクションが中止になってしまいました。
 そこで、主人公は、通っている区立中学の軟式野球チームに入って、都大会を目指すことにします。
 そこにも、その高校のスカウトがやってくるからです。
 中学のチームには、今までチームを強くするために頑張ってきたキャプテンがいました。
 方法は違っても目標は共通する二人は、時には対立しながらも、力を合わせて都大会出場を目指します。
 チームは、順調に区大会を勝ち進みます。
 決勝戦で二人を待ち受けていた試練とは?

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割れた爪
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宮内悠介「清められた卓」盤上の夜所収

2016-11-14 08:16:54 | 参考文献
 今度は麻雀の話です。
 宮内は麻雀プロの試験を受けたことがあるそうなので、一番の得意ゲームなのでしょう。
 これだけは、本などで調べたのではない自分の知識をもとに作品を書いているようです。
 実戦のシーンもたくさんありますし、他の作品で見られたノンフィクションタッチはほとんど形式だけになり、完全なフィクションになっています。
 しかし、それが仇になって、作品としてはもっとも読みづらいものになっています。
 麻雀活字(麻雀の牌をそのまま活字にしたもので、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」などの麻雀小説で使われています)を使っていないこともあり、かなり麻雀の知識がないと実戦部分のおもしろさは理解できないでしょう。
 また、この作品も一種のキャラクター小説(決勝進出者の四人は、「都市のシャーマン」と呼ばれている統合失調症にかかっている新興宗教の教祖の女性、女性の元主治医で元恋人の精神科医、雀ゴロあがりの前向性健忘症にかかっているプロ雀士、アスペルガー症候群の9歳の少年という全く無茶苦茶な設定です)なのですが、まるでキャラがいかされていません。
 こういった荒唐無稽な設定ならば、思い切りはじけてくれなければ読者は楽しめません。
 宮内の小説の書き方には新味がなく、読者を楽しませる物語の書き手としての力が決定的に欠けています。
 児童文学の世界でも特異な世界を描いた作品はたくさんありますが、さすがに子どもという読者を意識しているためか、ここまで極端に読者に事前知識を要求する作品はありません。

盤上の夜 (創元日本SF叢書)
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東京創元社
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大川慎太郎「不屈の棋士」

2016-11-13 11:27:31 | 参考文献
 将棋の棋士たちが、急速に力をつけてトップ棋士までも脅かすほど強くなった将棋ソフトにどう向き合っていくかを、十一人の棋士にインタビューしたものをまとめた本です。
 現在の最強の将棋ソフトは、トップ棋士と同等以上の強さを持っていると言われています。
 コンピュータソフトとゲームの最強プレーヤーの対決は古く1990年代から行われています。
 比較的簡単なチェッカーは、コンピュータがあっさりと最強棋士を負かしてしまい、さらには完全解(その通りの手順にさせば必ず引き分けになってしまう)まで証明されて、ゲームとしての生命を絶たれてしまいました。
 チェスも1990年代に、当時の世界チャンピオンがIBMのスーパーコンピュータのビッグブルーに破れてしまいました。
 しかし、置き駒のできる将棋はチェスより格段に難しいので、将棋ソフトに負ける日はかなり先のことと思われてきました。
 当時のコンピューターはその計算能力を生かしてしらみつぶしに先読みをさせる戦法だったので、コンピュータハードウェアの進歩(計算速度が速くなる)から、将来を類推していたのです。
 ところが、その後AI(人工知能)の研究が進み、コンピュータが学習能力を身につけると、自分自身で対戦を重ねることで最善手の発見が飛躍的に速くなり、将棋ソフトの実力は急速に進化し、2015年にはトップ棋士の実力に追いつきました。
 実際に、将棋ソフトの対戦でトップ棋士も負けるようになり、将棋界には深刻な危機感(ファンやスポンサーが離れてしまうのではないか)が生まれています。
 また、将棋よりさらに複雑な囲碁でも、2016年に、韓国のトップ棋士がコンピュータに敗れ、大きなニュースになりました。
 そんな状況の中で、この本が出版されました。
 私がこの本に興味を持ったのは、将棋界に限らず、AIの普及により多くの職業が失われてしまうのではないかとの危惧がある中で、人間が生き残っていくためのヒントが得られるのではないかと思ったからです。
 人間がコンピューターに仕事を奪われるのは、今に始まったことではありません。
 私が就職したのは、四十年前のことでした。
 最初の仕事は、外資系の電子機器メーカーのマーケティング課のサービス係でした。
 職場には、係長の下に、私と先輩の男性エンジニアがいました。
 仕事の内容は、新製品の使い方や動作原理や修理方法を書いた英文マニュアルと使い方の部分だけを翻訳した和文の取扱説明書の作成と、世界中にいる実際に修理をするサービスエンジニアたちのトレーニングと彼らが困ったときの技術サポートでした。
 これらを行う私たち二人をサポートするために、セクレタリ(秘書)、英文タイピスト、和文タイピスト、トレーサー(私たちが手書きした図面をトレースする人)の四人の女性と、英文をチェックしてくれるアメリカ人の男性がいました。
 しかし、OA(オフィスオートメーション)によって、2000年ごろまでに、彼ら五人の仕事は完全になくなってしまいました。
 出張の手配、費用の精算、必要品の手配、英文作成、和文作成、翻訳、図の作成、海外のエンジニアとのネットミーティングなど、すべてをコンピュータを使ってエンジニア自身が行えます。
 こうした人間の仕事がなくなっていく状況は、AIの進歩によりさらに加速すると言われています。
 そんな中で、この本に人間が生き残っていくためのヒントを探しました。
 本の目次に、各回のまとめがのっているので、それを見ていただけば、各棋士のコンピューターソフトへのスタンスがわかるので、転載しました。
 各棋士の肩書は、タイトル戦などの結果で日々に変わっていきますので、興味のある方はネットで調べてください。

 第1章 現役最強棋士の自負と憂鬱
  羽生善治 何の将棋ソフトを使っているかは言いません
  渡辺 明 コンピュータと指すためにプロになったのではない

 第2章 先駆者としての棋士の視点 
  勝又清和 羽生さんがいきなり負けるのは見たくない
  西尾 明 チェス界の現状から読み解く将棋の近未来
  千田翔太 試行錯誤の末に見出した「棋力向上」の道

 第3章 コンピュータに敗れた棋士の告白
  山崎隆之 勝負の平等性が薄れた将棋界に感じる寂しさ
  村山慈明 効率を優先させた先にあるものへの不安

 第4章 人工知能との対決を恐れない棋士
  森内俊之 得られるものと失うものの狭間で
  糸谷哲郎 ソフトの「ハチャメチャ」な序盤にどう慣れるか

 第五章 将棋ソフトに背を向ける棋士
  佐藤康光 将棋はそれほど簡単ではない
  行方尚史 自分が描いている理想の棋士像とのズレ

 それぞれの将棋ソフトに対するスタンスは様々ですが、共通しているのは以下の通りです。
 ・棋譜(対戦の記録)への将棋ソフトの影響は避けられないだろう。
 ・現行の棋士制度(棋士になるは難しいがいったんなればある程度の収入は保障されている)を維持するのは難しいだろう。
 ・観客(これはコンピュータの進歩のいい影響で、インターネットにより観客は飛躍的に増えています)を感動させられるような人間同士の対戦はファンを引き付け続けていけるだろう。
 結論を言うと、クリエイティビティを持ったトップ棋士の棋譜(芸術性があると言っていいかもしれません)は、コンピュータには生み出せない価値を持つと信じられています。
 これは、他の職業でも同様でしょう。
 ルーチンワークや推測で行えるような仕事はなくなり、コンピュータに行えないようなクリエイティブな仕事は今よりも価値を持つことでしょう。
 児童文学の世界でも同様で、読者のデーターベース消費を満足させるようなパターン化したキャラクター小説は、やがてはコンピュータで自動生成されるようになり、今は軽視されている芸術的な作品が価値を持つ時代がやがて来ることでしょう。

不屈の棋士 (講談社現代新書)
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講談社





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バッティングセンター

2016-11-13 09:07:12 | キンドル本
 主人公の兄弟は、少年野球チームに入っています。
 最近、兄の方はバッティングが不調で悩んでいます。
 一方、弟の方は、低学年だけのチームで主力バッターです。
 バッティングの練習のためには、バッティングセンターが有効です。
 しかし、たいがいは右利き用の打席しかなく、左バッターは利用できません。
 兄弟の父親は、左利きの兄のために、左打席のあるバッティングセンターを探しています。
 新しいバッティングセンターがオープンしました。
 さっそく父親は、兄弟をバッティングセンターに連れて行きました。
 そこには最新の設備がそろっていて、左バッター用の打席もありました。
 二人は、熱心にバッティング練習をしました
 そのころ、兄弟の祖父は脳梗塞で入院していました。
 その病院は、新しいバッティングセンターの近くでした。
 兄弟は、バッティング練習の後で、ユニフォーム姿のまま祖父を励ましに行きました。
 兄が出場する県大会出場のかかった大事な試合がやってきました。
 その当日、祖父は危篤になります。
 そのため、父親は試合の応援に行かれませんでした。
 はたして試合の結末は?

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バッティングセンター
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平野 厚
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児童文学における主人公のキャラクター設定について

2016-11-13 08:52:59 | 考察
 児童文学の主人公は、完全無欠な優等生タイプよりも、どこかに欠点や弱点を持っている方が好まれるようです。
 大半の読者は、普通の男の子だったり女の子だったりするので(現在は圧倒的に女の子の方が多いでしょう。男の子たちは、物語の消費欲求を、携帯ゲームやトレーディングカードで満足させています。もちろんアニメやコミックスは、男女を問わずに今でも好まれています。ただ、最近はやっているスマホは、男の子より女の子の方が普及率が高いので、彼女たちもだんだん紙の本は読まなくなっていくでしょう)、優等生の自慢話などは反感を買うだけで、自分たちよりも劣った点を持った主人公の方が共感が持てます。
 四半世紀前に、長崎夏海が非行少女や少年たちを描いて注目されていたころ、「不良を描けば児童文学になるのかよ」と彼女にかみついたことがありましたが、今振り返ってみると、あのころはああいった少年少女を描くことに意味があったのだと思っています。
 その一方で、エンターテインメントの世界では、スポーツや芸術分野で超人的な能力を持った主人公は、読者のあこがれの対象になるようです。
 また、イケメンや美少女などの外見的要素も大事になっています。
 現在、一番主人公にしにくいキャラクターは、可もなく不可もない普通の男の子でしょう(先ほど述べましたように、読者のマジョリティは普通の女の子たちなので、彼女たちに似た普通の女の子の主人公は、まだ共感を得ることができます)。
 1980年代までは、森忠明や皿海達哉たちが、普通の男の子たちを主人公にした本を書いていましたが、現在ではそのような本を出版することは非常に困難です。

table border=0 colspacing=0 cellpadding=0>子供の本の世界―物語の主人公たち (1972年) (ほるぷ・ブックガイド・シリーズ)クリエーター情報なし図書月販
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石炭場の少年たち

2016-11-12 09:13:15 | キンドル本
 夏休みのある日、主人公は、暇を持て余して、特に目的もなく自転車ででかけます。
 偶然、空き地で野球をやっている少年たちと知り合い、主人公も野球の仲間に入れてもらいます。
 その空き地は、もとは石炭置場のようでした。
 今でも、黒い石炭の粉が地面に落ちています。
 そのため、白いボールもすぐに黒くなります。
 ゴムボールを使って素手でやる野球は、主人公が入っていた厳しい練習を強いる少年野球チームと違って、自由でとても楽しいものでした。
 実は、主人公は過酷な登板を命じた監督に従わなかったばかりに、チームをやめさせられていました。
 主人公は、毎日石炭場を訪れて、野球の仲間に入れてもらいました。
 しかし、その楽しい時間は、突然破局が訪れます。
 最後に、主人公が石炭場で出会った人は?

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石炭場の少年たち
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宮内悠介「象を飛ばした王子」盤上の夜所収

2016-11-12 09:07:45 | 参考文献
 古代インド将棋であるチャトランガの話です。
 チャトランガは、西に伝わってチェスに、東に伝わって日本の将棋になったと言われるこの種のゲームの源です。
 戦争好きの王に戦争をやめさせるため、高僧が王に献上したのがチャトランガの始まりであるという説に着想を得て、ブッダの息子であるラーフラがチャトランガを考え出したことを匂わせてお話は終わるのですが、これは宮内がいろいろな文献をもとに考えた完全なフィクションです。
 作中に述べられているように、チャトランガの起源には諸説があり、また古代インド将棋にはチャトランガ以外にもいろいろなものがあったと言われています。
 この作品は、チャトランガというゲームよりも、古代インドの王子の苦悩が描かれているのですが、そのメンタリティは現代の日本人と変わらず物足りませんでした。
 宮内作品の特長であるゲームに対するマニアックな追求をもっと前面に出した方が、他の作家との差別化が図られるのではないでしょうか。

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ジャンプ!

2016-11-11 08:22:17 | キンドル本
 新しい我が家が完成したので、主人公は新興住宅地に引っ越しました。
 そこの学校では、クラスのボスを中心にグループが出来上がっています。
 彼らの間では、モトクロス用自転車がはやっていました。
 モトクロス用自転車を持っていない主人公と彼の友だちは、仲間外れにされます。
 主人公は、友だちに悪いなと思いつつ、兄のモトクロス用自転車を借りて仲間に加わります。
 みんなで、モトクロスのレースに参加になることになります。
 主人公は、懸命に練習に励みます。
 ところが、兄のモトクロス用自転車が行方不明になります。
 はたして、自転車の行方は?
 そして、主人公のレースの結果は?

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平野 厚


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児童文学で流行りものを書くときの注意点

2016-11-11 08:12:36 | 考察
 現在の児童文学が女性向けのエンターテインメント中心になっていることは他の記事にも書きましたが、そのために女の子が好きな題材の作品がたくさん書かれています。
 ひところはラブコメや怪談物が流行っていましたが、今は、魔法や魔女や妖怪や食べ物屋さんなどがたくさん書かれています。
 類似の作品がたくさんあるなかで、商業出版したり、さらにはたくさん売るためには工夫が必要です。
 例えば、妖怪物を例にあげると、一番いいのは今までにないオリジナルの妖怪を創造することですが、これはなかなか難しいことと思われます。
 次に考えられるのは、妖怪に関するマニアックな知識や情報の提供です。
 これは、作品を書く前に、十分な取材や調査をすれば誰にでもできますが、あまりこうした知識の伝達に重きを置くと、エンターテインメントの命である面白さが万人向きでなくなってしまうので注意が必要です。
 一番オーソドックスな方法は、妖怪および登場人物の活躍する物語の面白さを追求することです。
 これは、すべてのエンターテインメントに共通することですが、当然それなりの筆力が求められます。
 一番おすすめなのは、妖怪およびキャラクターの個性を、できるだけデフォルメして際立たせることです。
 現在の児童文学のエンターテインメントは、他の記事にも書いたように、ライトノベルなどの影響でキャラクター小説化が進んでいるので、キャラクターさえたっていれば、多少ストーリー展開などの難があってもなんとかなります。


水木しげる妖怪大百科
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小学館
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グッバイキッド、グッバイマミ?

2016-11-10 08:00:37 | キンドル本
 「マミ、キッド、そしてぼく」(その記事を参照してください)の続編です。
 主人公たち五年生は、卒業式に在校生代表として参加する予定です。
 主人公の親友のキッドは、卒業式の予行演習で、六年生たちともめてしまいます。
 一部の六年生たちは、卒業式の日にキッドを痛めつけようとします。
 主人公たちは、「キッドを守る会」を作って、作戦を練ります。
 いよいよ卒業式の日に、意外な展開が待ち受けています。
 一方で、主人公たちが六年生になるときに、クラス替えが行われることになりました。
 近くに団地ができて、転校生が急増したからです。
 いろいろと不吉なことが起こって、主人公は自分だけが、キッドや初恋の相手のマミと、他のクラスになるんじゃないかと心配します。
 思いつめた主人公は、新しいクラス決定の会議を覗き見することにします。
 主人公は、はたしてキッドやマミと同じクラスになれるでしょうか?

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グッバイキッド、グッバイマミ?
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平野 厚


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黒川博行「燻り」燻り所収

2016-11-10 07:54:05 | 参考文献
 短編集の表題作で巻頭作なのですが、非常に短くてラストは「えっ、もう終わり」って感じです。
 極道とその周辺にいる若者たち、極道と警察の癒着を描いていますが、あっけなくて何が言いたいのかよくわかりません。
 児童文学の世界でも、雑誌などにショートショートが書かれることはよくあるのですが、もっと起承転結がきちんとしています。
 こんな作品を雑誌に載せる方も載せるほうなのですが、読まされた読者たちはどのように思ったのでしょうか?

燻り (講談社文庫)
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講談社
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児童文学で親子関係をどう描くか

2016-11-09 09:27:50 | 考察
 児童文学において、親子関係を描くことは非常に重要です。
 友人関係や学校などと並んで、子どもたちの生活に大きな影響を与えているからです。
 かつて、離婚などの親子関係の負の面を描くことは「現代児童文学」(外国ではケストナーの「ふたりのロッテ」やフロロフの「愛について」など、それ以前にそういった親子関係を取り扱った作品があります)タブーとされていましたが、1970年代に今江祥智の「優しさごっこ」などが出版されてタブーは破られました。
 そのころと比較しても、現在の親子関係は複雑化しています。
 離婚はより一般的になり、単身赴任、シングルマザー、不倫、ネグレクト、格差社会による貧困、登校拒否、引きこもりなど、描くべきテーマは多岐にわたっています。
 現在出版されている児童文学でも、そうした状況を反映していろいろな親子関係が登場しています。
 しかし、多くは単に設定として使われているだけで、それらの親子関係に真摯に向き合った作品は限られています。
 親子関係をマクロにとらえてパターン化して描くのではなく、ひとつひとつの親子関係をミクロにとらえて掘り下げて描く必要があります。

愛について
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岩波書店
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