goo

ハイカラか、ハイカラでないか




安田謙一さんの「神戸、書いてどうなるのか」に、陳舜臣著「神戸というまち」の項があった。

「神戸というまち」、実家の書架にもあった。

わたしの父は作家の陳舜臣さんと飲み友達で、それが自慢だった。


陳さんは「神戸というまち」の中で

「神戸の人間は、新しいものに対して、一種の鑑定人たることを要求された。では、鑑定の基準は何か?
-これはおもろい。
-これはおもろくない。
伝統の尺度がない以上、個人の実感にたよるほかなかった」

と書いておられるそうだ。
(この本は手元になく、「神戸、書いてどうなるのか」からの孫引きで失礼。「おもろいか、おもろくないか」より)



そうだ、わたしの祖父母や大叔母連中の基準はまさにこんな風だった。

-これはハイカラ。
-これは野暮ったい。
(「野暮」の反対語は普通は「粋」。ハイカラが粋と同格になっていることに注意)

伝統の尺度がないからこそ、舶来の「ハイカラ」値が、ものごとを取捨する重要な基準だったのだ。


もっと祖母姉妹の話を聞いておけばよかったな、と海の彼方で思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

雲丹色を








一昨日の記事をご覧になったSさんが、

この「擬宝珠か宝珠か」の形状を聞いてくださったので


賞味期限ぎりぎりになるまで開封するのを我慢していた
天たつの干し雲丹を盛った写真を。

ラベルの雲丹色つながりで
グラン・ダムを開け

王侯になった気がしました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

sea of troubles




少し前に見た、Yorke Dance ProjectによるKenneth MacMillanのsea of trouble

書きそびれているのが日々とても気になる作品だったので書く。


ハムレットを題材にとった35分ほどのバレエで、登場人物は6名のみ、舞台装置も衣装もミニマムだ。


このミニマムさは「限界芸術論」の最初で鶴見俊輔がずばり書いている通り、

「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである」

そうだな、と思った。


ごく小さいシアターには観客席も少なく、舞台とつながっており、当然ダンサーと近く、舞踏というものが本来持つエロス・タナトスに圧倒された。

大昔の人々はこういうアート・フォームをみて熱狂したのでは...


ピアノ・トリオで構成されたBohuslav Martinuの音楽もすばらしく、出会えてラッキーだと感じた作品。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

擬宝珠か宝珠か







高田晴之さんの
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

オリエント急行殺人事件




理由はいくつか思いつくが、映画館で映画を見ることはほとんどなくなった。

それでも時々は映画館で見たいものが制作される。
アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」などはそのひとつだ。

ケネス・ブラナー監督版は英国でも先週日曜日(5日)に封切られたばかりだそう。そのわりには日曜午後の会場は大盛況という風でもなかった。


超有名な原作とはいえ、ミステリなのでネタバレしない程度に...

というか、「原作にはない新ネタが含まれている」と鳴り物入りだったのにもかかわらず、新ネタが含まれていると触れ回るほどでは全くないのではというのがわたしの感想。


全体を通してCGが多いからだろうか、1930年代のお話に見えなかった。
ファッションや機関車などの小道具も現代ではありえないデザインなのにもかかわらず、30年代には全然見えない。現代に見える。

なぜなのか。


先日、親友と、ヴィスコンティがいかに映画の中で「本物」にこだわったという話をした。

例えば、舞踏会の招待客全員が違う香水をつけているとか、セット内の置物の見えはしない中身まで全部入っているとか、映画のスクリーンを通してはどうせ見えないものにさえ、ひとつひとつにリアルなストーリーを込めて制作したというのは有名なエピソードだ。
そういうリアルさというものは、画面を通してなぜか「見えてくる」ものなのかなしれないな、と思った。

また、犯人の動機も1974年版ではなるほどと思えたのに、2017年版では「人間ってこういう風に行動するものだろうか」と説得されず...理由は上記と同じように、登場人物が30年代の人々に見えず、現代のスケールで生きているようにしか見えなかったからだ。



前作の「オリエント急行殺人事件」も豪華なキャストだったが、今回もひとりひとりが主役を張れるような俳優ばかりで豪華は豪華。
ポワロー役のケネス・ブラナーのフランス語なまりの英語がいまひとつ。
ゴージャス美女のペネロペ・クルスが普通のおばさんに見えたのはすごい。
バレエ・ダンサーのセルゲイ・ポルーニンが社会性に問題のある伯爵役で、もうちょっと俳優として丁寧に扱ってやればいいのに...と残念だった。
目を覆いたくなったのは、ミシェル・ファイファーの演技が少々クサかった点。彼女が劇中劇を演じている時はクサいと分かってよいが、最後の最後までクサかった。


総合では、映画という文化媒体が、過去何十年かの間に観客の知性を低く見積もり続けた結果、映画は「バカ・モードでも理解できるもの」に成り下がったような気がする。

皆まで言うなというような部分まで全部説明するために俳優に大げさな演技をさせ、現実ではありえないような説明ぽい台詞を言わせる。
観客各人が想像力を働かせ、考える糊代を残さなくなったのかな、という印象を受けた。


最後に次作は「ナイル川殺人事件」である、という伏線を示唆して終了。

絶対に見ると思うけど(笑)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »