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人は神によらず聖者になりうるか


昭和61年三十三刷の新潮社文庫。 
さわれば紙の繊維がボロボロ落ちているような...
この本は神戸のジュンク堂書店で購入し、
中東暮らし、アメリカ暮らしを経て、ヨーロッパ暮らし中の今もまだ手元にある。



世界中でカミュの『ペスト』が読まれているそうだ。

わたしもこの生活下(英国で隔離生活中なのです)で再再再...読目くらいで読了した。字と行間がものすごく小さく、コンタクトを外さないと読めず(笑)、いつもより読むのに時間がかかった。

災厄に襲われた、ごく普通の人間のものの考え方や生活態度がどのように変化するかが、まるで昨今のヨーロッパ世界のことであるかのように描かれていて驚く。

「市民たちは事の成行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。それに、たとえば医師リウーなどはそう考えていたのであるが、まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。」216頁

「何びとも、最悪の不幸のなかにおいてさえ、真実に何びとかのことを考えることなどはできないということである。なぜなら真実に誰かのことを考えるとは、すなわち刻々に、何ものにも-家事の心配にも蠅の飛んでいるのにも、食事にも、かゆさにも-心を紛らさせることなく、それを考えることだからである。それゆえに、人生は生きることが困難なのである。」287頁



それはそうと、この人類の金字塔は、疫病が街を襲うという体裁を借りて、もちろん第二次世界大戦中・後の社会の様子を描いている。

カミュはレジスタンスの闘志だったため、戦後は当然、コラボラトゥール(対独協力者)を糾弾する側に回るのかと思われきや、正義の名においてドイツに協力した人々を罰することを拒否した。
なぜなら、レジスタンスが対独協力派を糾弾し罰することは、戦時中に行われてきた同じことを立場逆転でするだけにしかならないからである。

なぜそうなってしまうのかと言うと、戦争なり、民族粛清なり、テロなりが起きるとき、そこには常に「被害者」しかいないからだ。

誰もが自分こそが正義であり、相手こそが悪で罰せられるべきだと思い込んでいるのだ。

「ペスト」がわれわれ人間に襲いかかってくるときのように。

この、「自分は正義」という無邪気さこそが「ペスト」なのである。


「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば、誰一人、待ったこの世に誰一人、その病毒を免れているものはいないんだ。そしてひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの-健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは医師の結果で、しかもその医師は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。」302頁


しかし、そこで終わってはレジスタンスとして共に戦い、倒れた戦友が報われない。


「黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておこために、そして天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも讃美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために」368頁


彼は不条理が襲った街を背景を借りてこの小説を書いたのだった。


季節が万聖節に巡ってくるあたりからは特に描かれているものすべてが美しく、すべてが胸に染み渡る(市立競技場に設けられた隔離施設のシーンあたりから後)。


人間は、行動や考え方の良し悪しの基準となる「神」(や法律や道徳)のいない世界でも善をなしつづけることは可能か、と、対ペスト保健班を組んで活動をするタルーは問う。

それに医師リウーは、ただ自分の職務を粛々と果たす誠実さ、と答える。
人生が不条理=ペスト的=無意味であっても、それを放棄する理由にはならないのである。

「僕は自分で敗北者のほうにずっと連帯感を感じるんだ。聖者なんていうものよりも。僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。僕がひかれるのは、人間であるということだ」306頁
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