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遠くへ行きたい



「とても絵になるので後ろから写真をとってもいいかしら」、と声をかけた旅の御三方。



「旅に出たい」
「リセットしたい」
「どこか遠くへ行きたい」

ほとんど一年前から続く、新型コロナ下の移動規制などにより、例年よりもさらに切実な「心の叫び」が聴こえるようになった。

日常生活のルーティーンや労働から解放されて、「ここではないどこか」他のところに身を置き、解放させたい、邂逅したいという、精神的にも物理的にも距離感を伴う気持ち...

これを「ロマンティック」と呼ぶ


ロマン派の誕生と近代の幕開けが同時だったのは偶然ではない。
「ロマン」と「近代」は切り離せない。

近代以前の伝統社会における人間集団の階級制や身分制は、地域や血縁関係と深く結びついており、ほとんど不動だった。
農夫の子は農夫、武士の子は武士、という身分だけでなく、嫁は嫁らしく、番頭は番頭らしく、という役割も固定的であり、そこに疑問の余地もなかったはずだ。
「自由」は少なかったが、「ほんとうの自分」や自分の居場所を求めて彷徨うとか、人生の意味はなどと考えて苦しむことは、まあほとんどなくすんでいた。

近代社会はそのような限界を越えた共同体である(ことになっている)。

近代以前の固定された社会を乗り越える道具は「理性」だった。
例えば自由と平等、啓蒙主義、科学の発達、資本主義、民主主義、労働の解放、教育を受ける権利、民族独立...などの理念である。

科学や資本主義の発達によって、人はある意味で古い社会の枠組みから「自由」になった(ことになっている)。
教育を受ける機会が広がり、活字を読み、賃金が増え、移動の機会も増え、古い共同体内で固定されたままでは知ることのできなかったものや人、世界に触れられるようになった。

ところが人間は、知れば知るほど、自由になればなるほど、自分がどれほど物ごとを知らないか、自由でないかを知るようになる。
(無能は自分が無能であるのを知ることはできない。メタ認知に欠けているから)


まだ自分が知らない「ほんとうの」自分がどこかにいる。
まだ知らない幸福がある。
まだ出会っていない運命の愛がある。


それはどこか遠くの知らない土地にあるのか。
遠い過去にあるのか。

芸術や大自然の中には、卑近にはない至高の美があるのかもしれない。
失われた文化には、真理への道が隠されているのかもしれない。

踊り明かした遠くの街の夜明けには、ほんとうの自分との繋がりがあり、あの素朴な村の人たちは真に豊かな生活を知っているにちがいない。


ロマンティックの本質は、対象との埋めることのできない「距離」にある。

新型コロナ禍は、釘付けにされた人間と対象との埋めることのできない「距離」を広げたかもしれない。




つくづく、自己というのはダイヤの原石のように、自分にもともと備わっているものではなく、関係性に関係すること(キルケゴール?)なのだ。


ロマンティックさとはいったい何なのか、という気持ちで以前こんなこと(「ロマンティックってなに?」)
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