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アブダビ 蜃気楼のような都市





gooブログにはちょうど一年前の自分のブログ記事がお知らせされる機能がついており、なかなかおもしろい。

ちょうど一年前、日本からの帰りに南回りで訪れたドバイとアブダビの記事が、まるで行方不明になっていた絵葉書のように届いた。


先週末から一昨日あたりまで、イングランドでも連日35度くらいまで気温が上がる猛暑で、ちょうどかの地のことを考えていたのだった。気温も暑さの質も全く異なっているけれど...

彼の地の、日向に出た瞬間、肌に火がつきそうな暑さ。熱さ、と言ったほうが適切かもしれない。

オマーンでも、部屋からプールへの小道が地獄の燃えさかる業火の道のようで、命の危険を感じたことがあるが、身体にひりひりと暑さを感じながらも非現実感でいっぱいなのは、目から情報が入ってこないほどまぶしく、脳が処理し切れないからだろうか。

アブダビの街自体、一夜にして現れた幻の都市のようで、偉大なるシェイク・ザーイド・モスクの中はまるで宇宙船のような雰囲気だった。






念願だったルーヴル・アブダビもしかり。

ジャン・ヌーヴェル設計の、人類の財産が一枚の紙の上に散りばめられたような美術館で(<分かりにくいですね)、素朴な価値判断を拒否している印象を受けた。

紀元前6500年前に作られたヨルダンの双頭の先祖の像から、レオナルド・ダヴィンチまで、どれも「作品」そのものを見られているような深い満足感が得られる。
例えがとても悪いが、「石壁」やあるいは「波」を見ているのと同じような感覚で「作品」を鑑賞することができると思った。

というのは、ふだんのわれわれは「作品」そのものを見ているというよりは、作品の持つ意味のほうを見がちである。つまり「言葉」による鑑賞をしがちである。
わたしは伝統的な西洋絵画は「感性」ではなく「情報」で読み取るものだと考えているので、言葉による鑑賞が間違いであるとは決して思わないが。






バートランド・ラッセルは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論』の有名な序文で

「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(中略)世界は私の世界であるということは、言語の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。」

と述べている。


言葉とは何か、思考とは何か、自分が自由に言語を操っているのではなく、言語が自分を使っているのではないか...という仕掛けを考えたことのある人は、自分の使う言語が自分の世界の「限界」であると感じたことがあると思う。
ここで注意すべきなのは、言語の向こう側には何もない、とは言っていないところだ。「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」とウィトゲンシュタインも言っているし...

つまり、言語はわたしを閉じ込めている牢屋そのものであり、作品を見るときも、言語という名の牢屋の枠から出られないのである。


が、この存在そのものが幻、あるいは宙に浮いた宇宙船のような(実際海上に浮いている)美術館の平面の上では、「わたしたたちは自由に言葉を用いて何でも表現できる」という思い上がりが速攻で打ち消されてしまう、という経験ができた...と思った。


優れた作品は、世界がある、という神秘を見せてくれる。
優れた建築も、だ。






フランク・ゲイリーのグッゲンハイム・アブダビ の完成が楽しみだ。
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