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『メドゥーサ』



 

(ルーベンス『メドゥーサ』ウィーンの美術史美術館で撮影)



連夜モエはロイヤル・オペラ・ハウスへ。

いっそのこと怪人となってオペラ座に住んだ方がいいかもしれない。

今日書きたいのは3本立て

Within the Golden Hour by Christopher Wheeldon
Medusa by Sidi Larbi Cherkaoui
Flight Pattern by Crystal Pite

うちのひとつ『メドゥーサ』についてだ。

昨今、最も注目されている振付家の一人、ベルギー人のSidi Larbi Cherkaoui(こちらが詳しいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/シディ・ラルビ・シェルカウイ)が、プリンシパル・ダンサーNatalia Osipovaのために制作した。
ギリシャ神話の怪物女メドゥーサを題材にした作品だ。

わたしはたぶん彼の作品を見るのは初めてだが、幅広く華やかな活躍と大成功を収めておられることは承知していた。

メドゥーサ役のナタリアは超一流ダンサーとしての全てを備えている。しかも常に全力ですべてを出し切るタイプのアーティストだ。
40分ほどの『メドゥーサ』においても、女神アテナの神殿に使える清らかな巫女としても、怪物に姿を変えられた後でも、ものすごい気を吐いていて、その迫力にまるで燃えているかのようだった。

しかし、ストーリー展開と振り付けは...正直、物足りなかった。


題材自体はとてもおもしろいと思う。

メドゥーサは女神アテナの神殿に使える巫女で、その美貌はギリシャ世界に知れ渡っている。
これに目をつけた海神ポセイドンがアテナの神殿内で彼女を陵辱する。
神殿を汚されて怒った処女神アテナは、海神を罰するわけにいかないため、メドゥーサを蛇の頭髪を持つ醜い怪物に変えてしまう。
また、メドゥーサには見るもの全てを石に変える力を持つようになる。

ここから実際のギリシャ神話では、ペルセウスがアテナから借りた盾を手にメドゥーサを退治をすることになるのだが(そしてついでにメドゥーサの生首を使ってアンドロメダを救出したりする)、舞台上ではどうもメドゥーサとペルセウスはもともと恋愛的関係にあることになっており、哀れに思ったペルセウスが彼女の首を取って始末するのである。

最後は美しい巫女の姿に戻ったメドゥーサが悲しみの舞を踊る。

ううむ。 単なるロマンティックな話に落とし込んでしまったのはなぜなのだろう。

舞台上での演出にしろ、わたしは女性が舞台上で凌辱されるようなシーンは楽しめないし、それが不可欠だとも思えない(ちなみにポセイドン役は平野亮一さん。先日も書いたが、彼は舞台の上で悪い役をやるとものすごく映える)。
さらにアテナによってメドゥーサが懲らしめられる際に、薄衣のスカーフで執拗に首や顔を締め付けられたりし、見ていられなかった。

たしかにギリシャの神々は意味や原因や理由もなくわれわれ人間の上に降ってわく災難を象徴してはいる。それでも、なぜ、2019年に制作された新しい作品なのにもかかわらず、生々しくさえ感じられる暴力の再現が必要なのだろうか。 まさかレイプやセクハラを告発しようとしているのか?(そうとはとても思えない) もっとうまいやり方があると思う。


メドゥーサはもともとギリシャの先住民族であるペラスゴイ人の地母神として崇拝されており、後から来た征服民族(ギリシャ人)がメドゥーサの地位をおとしめるためにこれを邪神に仕立てた。 異教の神が追い立てられ、邪神におとしめられた痕跡は世界中の多くの文化に残っている。

ギリシャではゼウスを頂点とする父権的宗教(その他一神教はすべて父権的である)が成立し、その過程で母権的宗教である地母神崇拝は抑圧された。
父権宗教は人に試練と禁欲を課し、要求し、社会化する。母子の一体化を断念させ、人に自主性を回復させ、自立を強いる。
ペルセウスが断ち切るメドゥーサの首というのは、母との一体化した関係そのもの、地母神崇拝との決別なのである。
「怪物」メドゥーサが、蛇の頭髪を持つのは伊達ではない。蛇は地母神の象徴・使いである。さらに説明するならば、見るものを石に変えてしまう能力というのも母神的な性格で、つまり母神はその視線で子を絡みとり、一体化してしまうのである。


神殿の美しい巫女としてのメドゥーサは、ペルセウスが誕生した時の若く美しい理想化された母親の像である(彼の実際の母親はダナエだが)。
母の胎内に戻りたいという人間の欲望というのはものすごく強いようで、そこには世俗的な心配事など何もない。人はそこで永遠の至福の中にまどろむこともできるのだ。 しかしペルセウスはまさにゼウスの息子でもあるから、父の名の下に母を切る。子を母から切り離し、自立させるのは父の役割なのである。

そう考えるとフロイトがメドゥーサの容姿を「母親の女性器」だと言っているのにも納得が...

エディプス・コンプレックスというのは西洋社会では根が深いようである。

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