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「恐るべき子供たち」は本当に子供か




フィリップ・グラスの「ダンス・オペラ」、ジャン・コクトー原作のLes Enfants Terribles「恐るべき子供たち」を鑑賞。

振り付けはザビエル・デ・フルトス/Javier de Frutos。

(コクトー原作「恐るべき子供たち」の感想はこの記事後半に)


わたし、フィリップ・グラスは特に好きではないのだが、ダンサーがロイヤル・バレエのプリンシパル、ゼナイダ・ヤノウスキー/Zenaida Yanowsky(今年に入って引退を発表したばかり)とエドワード・ワトソン/Edward Watsonなら、そりゃ見るしかない! と、バービカンへ馳せ参じてきた。

(右写真はwww.roh.org.ukより。ヤノウスキーもワトソンも本当に本当に美しかった)


度肝を抜かれたのは...
主要登場人物が、それぞれ複数名で構成されているのだ。

入れ替わるとかそんなもんじゃありませんよ。

例えて言うならば、漫画のスローモーションのシーンではよく使われる表現があるじゃないですか。
一コマに同一人物の動きが少しずつ重なるように描いてある、ああいうの。

(いい例を引いてきました。左のような感じを歌手とダンサー5名で作っている。厳密に言うともっと動きはバラバラだが。http://www.prime-zero.com/daviddutton/より)

つまりエリザベスは、オペラ歌手が声の主体を担当、ヤノウスキーが体の主体を担当、その他歌手1名とダンサー2名の計5名、計5名が舞台の上で「エリザベス」一人を構成しているのだ! 物理を都合よく無視したこの構成! 好き!


ポールも、オペラ歌手が声の主体を担当、ワトソンが体の主体を担当、その他3名の計5名で「ポール」一人。

準主役のアガートは、2名で「アガート」を。

そしてジェラールだけは1名。ということはつまりジェラールは...

ジャラールだけがオペラ歌手の1名のみで「ジェラール」を構成しているのは、彼だけが「演じていないから」だと思う。


以下、理由を述べる。


コクトー原作の「恐るべき子供たち」の主役、姉弟エリザベスとポールは、どの本や解説を読んでも、「大人の理解できない子供の世界に住んでいる、無垢ゆえに残酷な子供たち」であると説明されている。

この小説は、ピュアな子供が住む、ピュアな世界の、ピュアであるゆえを描いている、と了解されているのである(そうじゃない解説があったら、ぜひ教えてください!)。
手っ取り早くウィキペディアや、わたしの手元にある角川文庫の解説にもそう書いてある。

が、わたしはそうは思わない。

わたしはエリザベスもポールも、彼らはすでに「大人」であると思う。少なくとも「子供」ではない。
「大人」が、子どもの世界に住む「子ども」を命がけで演じていると思うのだ。

エリザベスが、アガートを愛するようになったポールを許せないのは、ポールが子どもの世界を破壊してそこから脱出しようとしたからではなく、演ずることをやめようとしたからだ。

彼らの綱渡りのような生活は「演技」の上にのみ成り立っているのだ。

それが証拠にこの小説は全てに芝居がかっている。
彼らは無垢で残酷な子どもではない。それを命をかけて演じている大人なのだ(で、最後には文字通り命を落とすのである)。

わたしが中学生の時にこの本を読んで、吐きそうな嫌悪感を感じたのもそこにある。
子供のふりを続ける大人の醜悪さ...


何しろコクトーはこれを書いた時、すでに40だったのだし。


「恐るべき子供」(<つまり大人)が、「恐るべき子供ごっこ」をしているんですよ、彼らは。それこそが彼らの好むThe Gameの中でも究極のゲームだったんですよ...


最後に、ポールに石入りの雪玉を投げて怪我をさせる(ためだけに最初、登場する)ダルジェロスとは何者か、という点。
ダルジェロスはエリザベスやポールらが安住したいと願っている嘘ものの子どもの世界が、ただの嘘っこであると風穴を最初に開けたトリックスターなのである。
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