goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

あちらの世界 trifonov




日曜日、人っこ一人歩いていないロンドンのシティの逢魔が時を車で通り抜けて。

王立裁判所やテンプル教会、セント・ポール寺院などが屹立して迫り、あちらの世界へ入ってしまったかのよう...


バービカンにTrifonov(以下トリフォノフ)のシューマンのピアノ協奏曲を聴きに行った。


彼はすぐにあっちの世界に行ってしまう憑依型ピアニストといえばいいのか。
霊的な体験をしている憑坐(よりまし)風だ。
神秘への没入感が彼の唯一無二の個性かと思う。

時空間をねじるような独特のテンポ感、ルバート。
シューマンのピアノ協奏曲イ短調 Op.54は、神秘的でもあり、構築的でもあり、自由でもあると言われ、特にその神秘で幻想的側面がよく伝わってくる。

ロンドン・シンフォニー・オーケストラが、彼による別世界への手引きに着いて行ったかどうかはわたしにはとうてい判断できないが、たまたま家で聞いたばかりのアルゲリッチによる同曲の野生みと情熱、愉快さ、自由さを保ちながら、常にオーケストラと対話しているのとは全然違っていて、ほんとうにおもしろかった。


第1楽章:テンポは比較的ゆったりめで、音色の変化を最大限に活かしながら、霧の中で音楽が浮かび上がるような表現。たった今見てきたセント・ポール寺院がライトアップに浮かび上がるような。
第2楽章:時間の歪みのような表現により、異世界をさまよっているかのよう。
第3楽章:幻想的なロマンを一番感じた。

あいかわらず下手くそな感想で恐れ入ります。

アンコールはチャイコフスキー『眠れる森の美女』より、2幕の幻のシーンのグラン・アダージョ。
うむ、やはり選曲からしてすでにあちらの世界、幻想的である。


Programme
Robert Schumann Piano Concerto
Gustav Mahler Symphony No 7

Performers
London Symphony Orchestra
Daniel Harding conductor
Daniil Trifonov piano
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イタリア・ルネサンスの3つの...4つの華


ミケランジャロ 聖母子習作 1504年ごろ


ロンドンの王立芸術アカデミーRoyal Academyの展覧会、その名もドラマティックな

『ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロ フィレンツェ c1504』Michelangelo, Leonardo, Raphael Florence, c. 1504

ロイヤル・コレクション・トラストとロンドンのナショナル・ギャラリーと提携して開催している展覧会だ。


レオナルド 『アンギアーリの戦い』の習作を不明の芸術家がコピー、
1600年ごろになってルーベンスが加筆、着色したもの
そのおかげで完成することのなかったこの壁画がどんなものだったか知れる...
しかも参与者がすごすぎる


時は15世紀が終わり、16世紀に入ったばかり、盛期ルネサンスのイタリア。

芸術の巨人、ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロの3人が共和国フィレンツェで邂逅したタイミングがあった。

3人の巨人、と書いたが、ここは4人目として「フィレンツェ共和国」を入れたいくらいである。


レオナルド 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』俗に言うバーリントン・カートゥーン 1506年ごろ



当時の芸術作品は、芸術家が自分の創造性の発露として好きなように創作したわけではなく、王、貴族、国家、教会など、強力な後援者からの受注生産だった。

共和国フィレンツェには、(当時の尺での)自由があり、莫大な富が集まり、古典文化に対する関心や、芸術を解するパトロンが多数いたため、ルネサンスの巨匠らが交差したのも無べならぬ。

芸術家が職人から尊敬される存在へと変化し、作品に名前を残すことが一般化し定着したのは、このころからだ。
この時期に芸術が単なる手仕事ではなく、個人の創造性と知性の表現として認識されるようになった。

その背景には、社会が、神中心(神の秩序・宗教的価値観)から、人間中心へと変化し、個人の才能や知的創造が尊重されるようになったという大きな変化がある。実際には変化には何百年もかかったろう。


1504年1月25日、フィレンツェの最も著名な芸術家たちが集まり、ミケランジェロがほぼ完成させたダビデ像の設置場所について協議したという。
ダビデ像はただの芸術作品ではなく、共和国の自由と抵抗の精神を具現化する象徴と考えられ、設置場所は圃場に重要だったからだ。

そのメンバーには、ミケランジェロ同様、故郷のフィレンツェに戻ったばかりのレオナルド・ダ・ヴィンチもいたのだ。


ラファエロ ミケランジャロのダヴィデ像のスケッチ 1504年ごろ
その話題のダヴィデ像を、若きラファエロがスケッチ...


彼らはお互いの作品を意識し競わ合わざるをえなかった。
それはちょっとしたメモ書きのようなデッサンやアイデアにも残っている。

完成していたら、価値がつけられない作品になっていただろう、フィレンツェ政府がヴェッキオ宮殿に新しく建設した評議会ホールの壁画のためにレオナルドとミケランジェロに依頼した大壁画(上記のレオナルド『アンギアーリの戦い』とミケランジャロ『カシナの戦い』)...についての研究。


撮影が下手でライトが水玉模様になってます


あるいはハイデルベルク大学図書館が保有しているキケロのEpistulae ad Familiaresの1477年版の余白に、アゴスティーノ・ヴェスプッチによってメモ走り書き。わたしはこの実物を始めた見た。

このメモによって、今まで謎とされていた、レオナルドの『モナリザ』のモデルは、リサ・デル・ジョコンド説が強く支持されるようになった。




また、ブルージュの誇りのひとつ、聖母子教会にある、ミケランジャロによる『聖母子像』のアイデアを書き留めた紙...こちらも初めて見ました!!

このラフなアイデアがあの優雅で天上的な作品に結晶するなんてねえ...!

この作品は、ヴァティカンのピエタと対になる作品である。




文化は「純粋な形」のままでは停滞し、異質なものが交わることで飛躍するのであるな。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一富士




謹んで新年のご挨拶を申し上げます

2024年12月、伊豆半島で仰いだ桃色の富士山




そして巳年

こちらは2024年の夏休みに訪れた、ギリシャはアクロポリス博物館の展示。
パルテノン神殿のぺディメントに刻まれた守護蛇だ。

蛇の後ろに小さく写っているひげの3人の男性像も蛇の下半身を持つ。
それぞれが、水のための「波」、火のための「雷」のボルト、空気のための「鳥」の3つの要素のシンボルを手に握っており、地面を滑る蛇の体は、4番目の要素である「地球」を象徴している...
めでたや。

蛇はその脱皮する性質や地中に住む生態から、古代社会では大地、再生、知恵、生命の象徴として崇拝され、豊穣や守護の役割を担った。
エジプトやギリシャ、インドなどで神聖視される一方、ギリシャ神話やキリスト教の勃興により、堕落や敵対の象徴、つまり「悪魔」へと変化した。


......





いまさら新年のあいさつ? と、思われましたか?

元旦の夜中にこの記事を書いてアップしようとしたら...
1月2日からgooブログを含むサービスは「海外からのサイバー攻撃を受け」て一切接続できなくなり、今夜二週間ぶりにアクセスできるようになったのです!
現在も接続は不安定です...

わたしはおかげさまで元気でパリ滞在中です。
ご心配くださった方、ありがとうございます!

2025年もどうぞよろしくお願いいたします。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

映画 conclave  邦題は『教皇選挙』




年の瀬、日本から英国へ帰宅して一番にしたのは映画を見に行ったことだった。と、前回も書いた。

レイフ・ファインズ主演のConclave。邦題は『教皇選挙』。

わたしは最近は映画をほとんど見なくなったし、ましてや映画館に足を運ぶなぞ...
バレエやクラシックのコンサートなら三度の飯をパスしてでも行くのだけれど!

それでも一握りの俳優が出る映画は見たくなる。英国の怪優レイフ・ファイアンズはその一人だ。

あれほど人物を演じ分けられるなんて、たとえば実際の裁判や警察や学会で証言・発言しなければならない時、人を説得したり、騙したり...お手のものなんでしょうなあ、と思ってしまう。


タイトルのConclave『教皇選挙』、日本語では歴史の授業でも「コンクラーヴェ」と習ったが、英語では「コンクレーヴ」と発音する。

話の筋自体は、新ローマ教皇選出の過程の政治的取引であり、登場人物も割とステレオタイプが多く(アメリカ人枢機卿がリベラルで、イタリア人枢機卿が保守だとか)、シーンもバチカン内に限られるものの、話をどんどん引っ張っていけるのは演技派の俳優が揃っているからだろう。


それはいいとして、わたしはレイフ・ファイアンズ演ずるトーマス・ローレンス枢機卿によるスピーチだけでもこの映画を見る価値があると感じたので、2024年のシメとして書く。


トーマス・ローレンス卿は、カトリック総本山、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型の組織の中で位を極めた人物であり、周囲からは教皇候補の一人と目されている。
彼は前教皇の追悼スピーチをこう始める。

"Certainty is the great enemy of unity; certainty is the great enemy of tolerance."

「確実性は共生の最大の敵です。確実性は寛容さの最大の敵なのです。」

(約はモエ。unityはこの文脈では訳し難いが、「団結」や「統一」とするよりも、「調和」や「共生」の方が意味が際立つと思い、そう訳した。似たものが団結する、というよりも、バラバラなものが調和する、という意味が強いと思うからだ)

確実性が共生の最大の敵であるのは、わたしも全面的に同意する。

しかし宗教者がこのように発言したのにわたしは驚いた。

神・真実という動かせない確実性とか、「われわれは真実を知っている」とか、「この教義は間違っていない、間違っているのはヤツらだ」という無批判性こそ一神教の核である(疑いや批判を挟まないのがすなわち信仰である)...というのが、一般だろう(まあ、これは映画だけど)と軽々にも思っていたからだ。


では信仰とは何か。彼はこう続ける。

"Uncertainty is the essence of faith. It keeps us humble, reminds us that we are not God, and that we must always seek Him."

「不確実性こそが信仰の本質です。不確実性はわたくしたちを謙虚に保ち、わたくしたちが神ではなく、常に神を求め続ける必要があることを思い出させてくれます。」

イエス・キリスト本人の最後の言葉の一つ「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。」も不確実性である、と。


"Our faith is a living thing precisely because it walks hand-in-hand with doubt. If there was only certainty and no doubt, there would be no humility, no tolerance, no humanity."

「わたくしたちの信仰が生きたものであるのは、それが懐疑と手を取り合って歩んでいるからです。もし確実性だけがあって懐疑がなければ、謙虚さも、寛容さも、人間性も存在しないでしょう。」


常に懐疑する...という知的負荷の高い考え方をするのは科学である。
カール・ポパーは、科学の理論や仮説は常に反証されうるものでなければ科学ではない、という。
つまり、科学の進歩とは、理論の正しさを証明することにあるのではなく、理論を試して誤りを見つけ続ける(反証する。これを反証可能性という)過程で成し遂げられると。

ローレンス卿の考える信仰はこれに似ている。
彼は、人間は、神や真実を「間違う」場合がある。間違う可能性に自覚的で、それを修正し続ける不断の努力が信仰であると言っているのである。

話が多少それるが、一般にユダヤ人に優秀な人が多いのは、彼らがこういう考え方を叩き込まれているからだ。
彼らは、人間の不確実性を通じて、神の確実性を推考しうると考える。しかし未だ(いや未来永劫)人間はそれに到達していない、と。


わたしはこの考え方を全面的に支持したい。

宗教的な争いや分断以外にも、われわれの社会は「確実性」で満ちている。
真実、正義、正しいのはわれらだ、という、ほとんど無根拠の思い込みである。


例として、イスラエルやロシアでもいいのだが、わたしは兵庫県出身ゆえ、斎藤元彦知事問題を取り上げよう。

選挙期間中、二馬力で戦った斎藤知事のダークな部分を、立花ナニガシという粗雑な話をする人物が担っていたことは周知の事実だ。

その立花氏が好んで使うマジック・ワードが「真実」である。
「真実」とは確実性である。

彼はまず、自分の話す「真実」(確実性)を信じろ、話はそこからだ、と持っていく。
実際「立花氏は真実を語っている」と信じている人は少なくない(だから斎藤知事が再選した)。

「これが真実です」と言われると、人々は簡単に思考停止に陥ってしまう。
心理学的にも、人間は「断言的な態度」をとる人に影響を受けやすい(自信ヒューリスティック)。
断言的に話す人物は、話の内容の正誤には関係なく、カリスマ性やリーダーシップを備えていると評価され受容されがちである。
ことほどさように人間は「不確実性」に耐性が低く、明確な答えや断定的な意見を示す人を欲するものなのである。

自分で材料を取りに行き、検証して考え、結論を出すよりもその方が楽だし、しかも自分は「真実」を知っているという優越感にもなり、いったんその「真実」(確実性)を受け入れてしまうと、その「真実」に沿うように情報を取捨し、「真実」に合う都合のいい筋道でものごとを理解するようになる。

そして「真実」を断言する人に問題の解決をゆだね、同じ真実を共有しない人、共感しない・できない人やものは無視し、その異質なものを排除するようになる。選挙運動期間中、暴力沙汰が起きたのも記憶に新しい。

ローレンスが確実性を疑い、警戒するのはこの点からであろう。
人間は間違うことがある、節度を持て、と。
信仰とは、確実性・真実・神の介入なしでも、よりよい社会、公共の調和をもたらそうとする人間の不断の努力であると(わたしはそう思う)。

わたしが敬愛するオルテガが言うように、文明は、「真実」や確実性を共有した「仲間」でも「同類」でもなく、「共感」も持てず、「つながり」も「絆」もない他者と共生するためにある。

宗教は文明である。

それは不確実で無能な人間が、「野蛮」に後退しないための不断の努力なのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

英国の家で年の瀬




日本と中国での滞在を終え、英国に帰ってきた。

最初にしたのは生鮮食料品の買い出しと、年末シーズンの食事の準備。
アンティーク・ショップが並ぶことで有名な街での散策、映画を見に行ったことなど...

1枚目の写真はアンティーク街のお店のテディ・ベア。
クリスマス精神に頭まで浸かってセンチメンタルになっていたわたしは、彼を連れて帰りたかった。この子はたしかに人形かもしれないが...連想してしまうことが多すぎる。




一ヶ月間の旅行中、ずっと外食かおよばれで自炊していなかったため、帰宅してからの食事の準備がほんとうに辛い。

いつもはワクワクしながらする食卓の組み合わせもいまひとつ。

かといって、英国の外食は...(小さな声で:ほんとうにおいしくないです)。

日本と中国のめくるめく美食よ。
あれももう飛行機で15時間の彼方の夢である。




写真2枚目のテーブルは、このシャネルのクリスマス・ツリーをイメージした。

色だけ? 全然違うけど。




さて、正月の室礼に変身させなくては。

まだ昼の1時過ぎ、暗くなるその前に散歩にでも...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »