6/18-21(日~水)、梅雨の合間の晴天を狙って宿を直前予約しました。尾張瀬戸駅周辺には瀬戸物屋さんが並び、いかにもって感じでした。
まずは「瀬戸蔵ミュージアム」へ。展示スペースが広く、工房や窯から駅まで再現されています。レストランや土産店もありました。
2枚目は磁器の粘土を絞る道具です。
様々な道具が展示されていました。これはほんの一部です。
瀬戸では東部から陶土が産出されます。磁器は江戸時代からなのですね。まだ200年しか経っていません。
展示の一部です。陶器の展示としては国内では最大かと思います。背中が痛くて休み々となりました。
宿は「入鹿の里 MUSICA」角部屋(禁煙・バストイレ付き)和牛が付いたグレードアップ会席 @17,720-全国支援3,000-クーポン2,000=12,720円 布団+ベッド1基と変わった作りです。
部屋の風呂場が広くてGOODです。窓も開けられますし。
入鹿池はバス釣り客が多かったです。明治村にも面しています。
大浴場はMAX4-5名ですが、夕食が18時ですので満室ですと客が集中します。繁忙期は風呂付部屋を推奨します。
美味しかったです。ワカサギが生臭かった他は問題無しです。@3万円弱でもココより劣る宿は多いよな。
1枚目はカサゴ焼です。総じてコスパに優れた宿で風呂付部屋を推奨します。
「明治村」です。明治~大正時代の重要文化財の建屋14棟、有形文化財多数を含む展示村となります。我々夫婦は10年振り2度目の訪問となります。5つの区画に分かれています。我々は混雑回避のために、奥の入場口から入って園内バスで表玄関へ戻ってから巡りました。
全てで70棟弱ありますので主な建屋を抜粋します。まずは1丁目区画の「聖ヨハネ教会堂(重文)」へ。後ろへ引けないときは18mmレンズは便利です・・が歪みも出ますね。
京都にあったものです。
「西郷従道邸(重文)」ガイドの案内でのみ2階へ上れます。西南戦争では兄隆盛と敵対しました。
暖炉はアズレージョですね。当時はとにかく西洋式が多かったのです。
什器は方々から集めたそうで、2枚目のテーブル&ソファは皇族邸からとか。什器を除いても窓枠とか立派です。すべて西郷従道の私財で建てたそうで、"勝てば官軍"とはよく言ったものです。錦の御旗でガッポリって奴ですかね、西郷さんちは元は下士でしたから。
円形テラスの天井は鉄材で当時は高価だったそうです。オープンテラスは排水のために外側が下っていますので歩くと違和感があります。
「森鴎外・夏目漱石住宅」 借家ですが部屋数が多いし金持ってたんだな~
蚊帳が懐かしいです。
続きは2丁目と3丁目区画となります。10年前と比較すると1棟増えていますね。
◇ 残尿僅か。残尿感は無し。
◇ 尿回数は10~11回 → 8~9回に減少。但し早朝に尿意で目覚めること有り
残尿が術後1ヶ月経過時 0mL → 15mL (術前は50~90mL)
正常範囲は0~50mL未満なので問題無し。
次回は術後9ヶ月目の検診。エコーにてインプラントの脱落が無いか確認するそうです。
3ヶ月目の検診予定を延期したら2ヶ月待ちでした。「ウロリフト」、かなり人気があるようです。
6/7(水)天気が良いので急遽お出かけに。常総IC近くの「坂野家住宅(重文)」へ。江戸中期から増改築を続けてきた大庄屋で、明治時代のドラマでは頻繁に使われている有名古民家です。
竹林は殺陣のお約束ですね。
敷地も建坪も今迄見た古民家の中では最大級です。
撮影に使われるので什器も揃っています。奥のVTRは放映していませんでした。
珍しい作りです。
意外なことに仏壇は小さ目です。昔のガス燈の配管もありました。
氷式冷蔵庫や大型金庫もありました。
二階です。戦後辺りまで住んでいたのかな。
部屋数が多い大邸宅でトイレや井戸も4ヶ所くらいありました。その割には欄間や仏壇がシンプルで実用重視です。
文書蔵もあります。ここは圏央道のICからも近く”お薦め”です。
「道の駅 常総」のパン屋は平日なのに大行列でした。メロンパン系が売り切れていました。
常総ICから40分ほどで「筑波山神社」です。約30年振りの再訪となります。「随身門」は幕末築で元は「仁王門」として「仁王像」が祀られていました。今では豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と倭建命(ヤマトタケルノミコト)の像に代わっています。
余談ですが、西暦418年生の第21代 雄略天皇から実在が確定していますので、神話の世界となります。さきたま古墳の鉄剣(国宝)の出土で確定となりました。卑弥呼(生年不明 -西暦247年)も実在が確定していますが皇族か否かは不明です。
御神体は筑波山なので本殿は無く拝殿となります。2枚目は樹齢800年の杉です。
神社からケーブルカー乗り場までは長い階段が続きます。少し腹に水が溜まったのでキツイ!10段置きに休む始末です。
20分置きの発車で7分間で到着。風はありましたが景色は今一歩、空気が澄んでいないのかな。
6/4(日)久々に横浜へ。脳の3D-CTAを受けに出掛けました。MRIが出来るなら必要ありません。MRIなら様々な病を検出できます。脳のCTと3D-CTAの差は動脈瘤が見つけられる程度かな。
<理由>
◇ 動脈硬化で左前下行枝の5番だか7番が50%狭窄(3年前の冠動脈CT)
◇ 5/1の脳CTでは「右前部に黒い部分が多数あるものが軽微な脳梗塞とも考えられるが、MRI出来んので分からん」と。
◇ 5中旬には体重が急に2~4kg増えたり減ったり、腹水かと。原因は動脈硬化と心不全ぽい
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動脈瘤は60歳代から急増する。主な原因は動脈硬化です
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「馬車道」駅は人が少ないです。
馬車道も昔と違って閑散としています。オシャレな店はみなとみらいにも多いですからね。「県立歴史博物館(重文)」は明治後期築の横浜銀行です。
内部は1952年築の旧新丸ビルと似ています(~1990年から3年間ほどMYデスクがあった)、明治には見えん。だいぶ改修が入ったかな。
「元町中華街」駅は人が多いです。中華街は10年前より多いかも。北京ダック・豚まん・小籠包を買う予定でしたが速攻で撤退しました。
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10年前までは時々通っていました。以下のリスト作成以降も大珍楼別館や均昌閣、リニューアルした順海閣(学生時代に行ったすね)にも行きました。全20店くらいかな。
我が家は広東&北京料理が好みで、聘珍楼や萬珍樓は無難に美味しいと思います。リストによると明揚(みんやん)や海勝昌(かいしょうしょう)がコスパ良かったようですが、既に閉店しています。均昌閣もですね。
次は菜香新館(サイコウシンカン)のコースが食いたかったのですが、もう食べきれません。半分しか食えないですね、たぶん。
6/1(木)茨城県稲敷市の「大杉神社」へ。平成に再建しているので建屋が新しいです。
2枚目が本殿兼拝殿ですね。
本殿の向かいに楼門っぽい建屋もありました。阿吽の像はありませんが彫刻は彩色です。
本殿兼拝殿を横から。2枚目は100円と500円(奥の箱)を投げ入れる賽銭箱です。
「安馬さま」と書かれています。授与品の種類が多く、SETは6万~50万円と様々です。
汎用品の干支みくじも全種置いています。2枚目は左が碁石型、右は踏足型の御払いで各1,000円でした。
「かわらけ」も内容別で各1,000円
ねがい矢も1,000円也 2枚目は授受品の一覧で気になった雪隠神の置物です。2,500円位だったかな。
妻は目的のおみくじ、獅子舞と汎用品の寅を授受。
私はこちらを。高さ34mmとミニサイズですが金属製です。病は「軽くみるとぶり返す」か。
wikiのよる同社言い伝えでは「796年に安穏寺境内に大杉大明神の社殿が造立された」とか。その江戸時代に再建された安穏寺は良い風情です(同敷地にある)
寺ですが内部拝観は出来ませんでした。
”おみくじ”目当てで参拝しましたが、手広くやっとるな~という感想かと。
5/26(金)「難波田城公園(なばた)」は埼玉県富士見市となります。難波田氏は平安~鎌倉にかけては地方豪族として畠山氏に従い、頼朝配下となりました。室町では扇谷上杉氏(謙信の先祖では無い方・本拠地河越城)に組して後北条氏(北条早雲系)に負けて滅亡しました。
北条の支城となった難波田城自体も秀吉の「小田原攻め」の際に開城、その後廃城となりました。
城跡と古民家2軒となりますが、綺麗に整備されていました。
「庚申塚(こうしんづか)」は荒川近辺にでも多数見受けられます。江戸時代に流行した中国の道教系の民間信仰です。
堀は浅く曲輪の効果も限定的かと思います(まあ、当時とは違うと思いますけど) 茶色の建屋が資料館です。2枚目の右手前の碑は室町時代の阿弥陀三尊です。城の井戸からの出土とか。
江戸初期のキリシタン密告の賞金は「立かへり者(転びバテレンの再信仰者)」で銀300枚=1朱銀300枚=1分金75枚=金18.8両=約600万円程でしょうか。農民なら3年分の収入となります。
昭和32年築の鶴瀬団地の模型がありました。水洗トイレで洗濯機が屋内にあるのが凄い。同時期のウチですが(新築な頃)、一部屋少ないですし汲み取り式トイレでした。横浜市のバス通りも未舗装な頃です。
この古民家は市内から移築した明治4年築の農家兼油屋です。什器が揃っているので見て楽しいです♪
これは何かな~と調べました。天井からブラブラと竹が下がっています。竹の先端は摩耗していました。水や油の形跡はありません。答えは最後にUPします。
最初は大きい釜を使っていたようですが、あとから小さいのx2に作り替えています。昔は雑炊だし釜一つで足りたのね。氷式冷蔵庫も渋いです。これは大正時代以降の型のようです。1950年以降になって電気式が一般家庭で使われ始めました。
我が家の1967年頃、TVは無かったけど電気式冷蔵庫はありましたね。
二軒目も明治4年築で大庄屋宅でした。こちらも昭和まで住んでいたようです。
納屋併設です。風呂は薪式で左側の屋外にありました。
陶器の便器です。リッチですね~
ちなみに正解は「石臼用の台」でした。「三芳町立歴史民俗資料館」の「くらしの民具」の「Vol.1」に記載されていました。最初は菜種の脱穀用かと考えましたが、「Vol.3」の「足踏脱穀機」を使うようです。このコーナーは役に立ちます♪