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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

飯豊連峰縦走

2016-09-19 05:49:56 | 登山


飯豊(いいで)連峰に縦走に行ったのは50歳くらいの時だったか?
歌声喫茶にはまっている今はパソコンに記録は残していますが、
その頃はそんな便利な物はなく、手書きで記録するしかありませんでした。
ですから、いい加減な記憶の中にしか記録は残っていないのです。
本当に行きたい山は、絶対に独りじゃなければ行かない。
それが私の信念だという強い思いを持っていましたので、
その山行は当然、単独行でした。



郡山駅から磐越西線に乗り換えて、会津若松まで行きました。
そこでホテルに泊まりました。
そんなまわりくどい事をしたのは、会津若松に古い友人が居たからです。
その友人は、私とは個人的にはそれほど親しくはなかったんですが、
折角、行ったんだから会って行こうと・・そんな気持ちでした。

その男は写真学校の仲間で、
渓流釣りがやりたくて・・で、会津若松に引っ越して行ったという変な男でした。
友人の話では、若い頃、居酒屋で飲んでいた相手と喧嘩になり、やっつけられ、
一旦は家に帰ったのですが、斧を持って居酒屋に報復しに乗り込んで行って、
警察沙汰になったという、チョッと危ない奴でした。

初体験の相手が、小学校の担任の教師だとか言ってましたけど・・
どっか母性本能を刺激する・・そんなトコがあったな、あいつは。
やっぱり実に変な、でも何処か何故か魅かれる男でした。



会津若松から北には喜多方市があり、そこから更に北に行くと、
熱塩村という場所があり、何の変哲もないその村を撮っていた後輩がいました。
「何で熱塩村なんだ?」と訊くと、
何処でも良かったんです、でもそんな何の変哲もない村を撮りたかったんです。
そういう答えが返ってきたのを覚えています。
彼はその後、新宿で「熱塩村」という写真展をやり、
私も見に行ったのですが、熱塩村の村民がかなり来ていました。

磐越西線では、トンデモナイ事がありました。
座った席の網棚の上に載せた、重さ20キロのザックが、
私の隣の席に落っこちてきたのです。
これには仰天しました、もし子供でも居たら死んだかもしれません。
(網棚というのは、実際に網だったら荷物がからんでいいのですが、
現在の様に金属製ののっぺりしたのは、荷物が滑って危険なんですね)



そもそも、私が何故、飯豊連峰に行ったかと言えば、ある本を読んだからです。
その本には、飯豊連峰で山小屋をやっている、ある男がいて、
彼は「日本中の山に行った、けど何処の山も面白くない、飯豊が一番いい」
その言葉を読んだからです。
「そんなにいいなら、いつか絶対に行ってやる」
それで行ったのです。



翌日は山都という駅に行き、そこから民宿に行きました。
そこには関西から来たという中年男性と同宿になり、色々話をしました。

次の日、民宿のマイクロバスで登山口まで送ってもらい、
いよいよ飯豊連峰の縦走が始まりました。
飯豊連峰を縦走した先の、新潟県・新発田市には、写真の友人が居るので、
縦走が終わった後には、その彼にも会うんだという楽しみもありました。

見知らぬ山を歩くというのは、実にワクワクするものです。
猿の集団が居たので、目を合わせぬ様にして、下を向いて歩きました。
登山道は、一歩一歩と標高を上げ、
私はこれからの風景は一体どんなものなのかと思いを馳せていました。

やっとその日の泊り地の避難小屋へとたどり着きました。
誰も居ない避難小屋ですから、私はコンロで湯を沸かしての夕食。
昨日の民宿で同宿だった関西の男と、当たり前ですがまた一緒になり一泊。

翌日は雨でした。
気にはしていたんですが、どうも台風がこっちに向かっているらしい。
ラジオだけが情報源で、二人で一生懸命に、今日どうするかを思案。

私は、折角ここまで来て視界の無い山を歩くのは勿体ないし危険だと停滞を決意。
関西の男は「私は時間的に余裕が無いので行きます」と避難小屋を出て、縦走に向かいました。
私は、こんな風雨の中を難行苦行で歩いても、
景色は見えず、ただ苦しいだけで危険だし、予定時間が無いというのも、
辛いだけだなと哀れに思いました。
独りっきりになった私は、ひたすら台風の過ぎ去るのを待ちました。
その夜も避難小屋で独りっきりの夜。
誰も来ないし、たった一人で何の娯楽もなく、ただただ耐えるのみの狭くて暗い小屋。

翌日は・・雨風は強く、とても縦走を出来る状態ではなく、
私は遂に、飯豊連峰縦走をあきらめて下山を始めました。
本当にガッカリしました。
きっと、この山に来る事は二度と無いだろうと思っていましたので、
その心中は悲しかった。
そして、その通り、私には飯豊に行く気はもう湧きませんでした。
新発田の友人に会う事もなくなり、本当にガッカリしました。
その後、新発田の彼とはまだ一度も会っていないのです。

この夏も、台風で私達の予定はまたもや狂わされました。
全く、日本には何でこんなもんが来るんでしょうかね~。
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航空戦艦

2016-09-18 09:38:12 | 軍艦
航空戦艦という艦種は、航空母艦と戦艦をドッキングさせた艦種です。

この艦種を持っていた国は、日本だけでした。
「伊勢」と「日向」(ひゅうが)です。
共に35000トン。
戦艦としては標準といっていい大きさでした。

「金剛」型、巡洋戦艦4隻を竣工させた日本海軍が、
それに次いで設計したのが、「扶桑」型戦艦4隻でした。
大正4年に、一番艦「扶桑」が竣工。
続いて大正6年に姉妹艦「山城」が竣工しました。



しかし、「金剛」型戦艦が、主砲4基・8門に対し、
一気に6基・12門へと増やした事は、攻撃力が1、5倍になって大成功と思った筈でしたが、
結果的にこれが大失敗になりました。
主砲発射時の爆風が凄くて、艦上構造物などが破壊されてしまうのです。
そして、主砲を6基とした事でエンジン部分の面積が圧迫されて、
大きな馬力を得られなり(低速)に甘んじなければならなくなったのです。
扶桑型戦艦は生まれながらの欠陥戦艦・失敗作だったのです。

海軍はあわてて、3番艦・4番艦の設計をやり直します。
それが「伊勢」型戦艦。4番艦は「日向」です。



扶桑の主砲の配置を変え、それによって浮いた面積をエンジン室の増大にしました。
しかしそれでも、たった1ノット弱(せいぜい1、5km)程度のスピードアップにしかなりませんでした。
扶桑・伊勢型戦艦は、日本海軍が生んだ大失敗作である事にかわりはありません。

昭和17年6月、
日本海軍はミッドウェーで歴史的大敗北をします。
ミッドウェー海戦です。

海軍は主力の航空母艦4隻を持っていました。
「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」です。
そして、何という事か、その4隻全部を失ってしまうのです。
海軍はあまりの事態に色を失います。
この海戦が転機となって、日本は敗色の一途を辿っていきます。

日本海軍は、空母を何としても造らなければならなくなりました。
といって、航空母艦という複雑な軍艦はすぐには出来ません。
海軍は、航空母艦に変更できそうな軍艦や商船などを空母に改造します。

しかし、商船改造や正規でない空母は戦力的には不安だらけです。
海軍は何としても強力な空母を喉から手が出る程欲しかったのです。

そんな時に、ミッドウェー海戦の1ヶ月前にある事件が起こっていました。
「戦艦日向」の5番砲塔が事故で爆発し、撤去されていたのです。
海軍はここに目を付け、日向を航空戦艦へと改造する事にしました。

最初は戦艦の船体を全部、空母へ改造したかったのですが、
それには時間がかかり過ぎ、
また、他の軍艦の建造が犠牲になってしまうという問題が起こります。

そこで海軍は、日向の前半分は戦艦のままで、後部だけを空母にする事にしたのです。
その結果がこのスタイルです。



「日向」と共に、同型艦である「伊勢」も同じ改造を受け、
日本海軍に2隻の「航空戦艦」なる世界でも全く初めての艦種が誕生しました。
外国にも、そういった構想はあったのですが、完成したのはこの2隻だけで、
それは空前絶後だったのです。

空母と言っても、飛行甲板は正規空母に比べれば短く、
航空機が滑走する長さには足りません。
航空機の発艦には「カタパルト」という発射台を使いました。



帰還する航空機は陸地まで飛んで行くか、
航空戦艦の周囲に降り、それをクレーンで釣り上げて回収するのです。

伊勢と日向には、それぞれ22機の航空機を搭載する事が可能で、
2隻合わせて44機という中型空母並みの航空戦力になる筈でした。
しかし、肝心の時になって航空機が他の作戦に使われてしまい、
結局、伊勢・日向ともに「航空戦艦」としての使われ方は一度も無かったのです。

終戦時には2隻とも、呉軍港で石油不足で動けなくなっていたのを、
アメリカ軍の空襲を受け、湾内に沈座して、そのまま終戦を迎えたのです。



よくアニメなどで、航空戦艦は、
軍艦相手でも、飛行機相手でも、
両方に立ち向かえる事の出来る万能戦艦みたいな扱われ方をしているみたいですが、
実際は、結局が、どっちつかずの中途半端な存在になっていたのでしょうね。

日本海軍は、この航空戦艦といい、
飛行機を積んでいた潜水空母とか、他の国が持っていなかった、
珍しい軍艦を生み出した、貴重な海軍だったのかも知れません。

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リオのキリスト像

2016-09-17 13:34:54 | エリカの日記
【RioWay】絶景!コルコバードのキリスト像上空から


8月に、ブラジル・リオデジャネイロで開催されたオリンピック。
そして今まさに行われている、パラリンピック。

テレビを観ていると時々写る、丘の上にある像。
あれは何だろうと調べてみました。
「コルコバードの丘に立つキリスト像」と言います。

1822年に、それまでポルトガルの植民地となって、
支配されていたのが独立。
その後、時はだいぶ経ってしまいましたが、
ブラジル独立100周年を記念して、
アメリカの(自由の女神)と同じ様にフランスで製作されました。

像のデザインはフランス人の、ポール・ラウンドウスキ。
製作監督は地元エンジニアの、エイトル・ダ・シルバ・コスタが行っています。

1931年10月12日に除幕され、
ブラジル人と多くの観光客に愛される像になったのです。

コルコバードの丘の標高は710メートル。
そんな高所に、像の高さ30メートル。
台座を含めると39,6メートル。
手を左右に広げた長さ30メートル。
重さ635トンもある巨大なキリスト像を建てたのには、
どんな秘密があるのでしょうか?

そこにはコルコバードの丘がある、ブラジル・リオデジャネイロと、
キリスト教とのつながりが隠されているのです。

ブラジルの元・首都であった(現在の首都はブラジリア)リオデジャネイロ。
1956年にブラジルは首都をリオデジャネイロからブラジリアに変えます。
それは、かつての支配者であったポルトガル色が色濃く残っている、
リオデジャネイロから、ブラジル色に変える必要があったのです。

リオデジャネイロという地名はポルトガル語で、
英語では、River of January(11月の川)という意味で、
ブラジル国民の多くはキリスト教徒なんです。

リオデジャネイロを一望できる丘の上に設置されたキリスト像、
「コルコバードの丘のキリスト像」は、
(キリストの神様が見守る街」という意味と、
人々の信仰の深さを象徴する像となっているのです。

両手を広げる独特の立ち姿の秘密。

コルコバードのキリスト像は、大きく両手を広げています。
少し不思議な立ち姿とも言えるでしょう。
実は、このキリスト像にも意味があるのです。

キリストが大きく両手を広げているのは、
ブラジルの人々の心の温かさを表わしていると考えられています。
確かに、大きく広げられたその腕から、包まれる優しさを感じます。

コルコバードのキリスト像の持つ包容力のある雰囲気は、
2010年には児童虐待のキャンペーンにも活用されました。
そのキャンペーンでは、マッピング技術を使って、
コルコバードのキリスト像が、あたかも大きく腕を動かして、
(ハグ)している様に見えるという演出がなされました。

この様に、コルコバードのキリスト像の大きく広げられた両手には、
世界中の人が感じる、心の温かさが表わされているのです。

2年前、リオデジャネイロに落雷があり、
キリスト像に直撃した様子は、実に神々しいと評判になりました。





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全くロシア人ってやつは・・

2016-09-17 03:11:53 | 日記
事故 グロ 観覧注意 ロシア編 人が跳ねられる瞬間と 死亡事故 grotesgue


ユーチューブ動画を観ていると、
ロシアの交通事故の映像が多く観られます。

それは、ロシアでは警察がまるでアテにならず、
仕方なく自衛手段としてドライブレコーダーの普及度が高いからです。

その映像を観ると、
日本人の感覚からすると、まさに(唖然)としてしまいます。
事故の度合いが日本とは比べ物にならないくらい派手なんです。
日本の交通事故が、チョッと車をこすった凹んだなんてのとは違い、
大破するは即死するはで、信じられないのです。

彼等はとに角飛ばします。
残雪まじりのスリップしやすい道を、
何でアンタそんなに飛ばすのというスピードで走るのです。
信号機の無い広い道を、沢山の車が走っているのを見てるのに、
猛スピードで横切って来るので、
当たり前に大事故、大惨事になります。
そんなのって、日本人からすると信じられないのです。

そして、多少の事故だと車は平然として立ち去ってしまうのです。
人をはねても、スピードは緩めても、そのまま行ってしまったり・・
そんな馬鹿な事、日本ではまずあり得ません。
他の車が大勢見てるのに、立ち去ってしまう・・あり得ない。

車同士の喧嘩にしても、
日本だったら、殴り合うなんて事は、今では殆ど見かけなくなっていますが、
(殴り合いなんて、多くの人は、結局損する)と知っているので、
口ばかりの喧嘩が殆どで、殴り合いなんてまず見ませんね。

しかし、ロシアでは殴り合いはそれほど珍しくなく、
バットの様な棒を持って降りてきたりとか、
それどころか、ピストルを持ってきたりとか、本当に信じられないのです。


道路を横断する歩行者・・・

まるで、車の流れを見ていない。
広い道路を沢山の車がかなりなスピードで走っているというのに、
そこを何で横断しようなんて命知らずの事をやるんだろう?

何で、走って横断しようなんて無謀な事をするんだろう?
それって、自殺と同じじゃないか。
周囲の状況なんて、まるで眼中に無く、走り抜けようなんて、
そりゃアンタ自殺って言うんだよ。

こういった日本人の感覚からすると、
まるで信じられないロシア人の行動を見ていると、
昔観た、オリンピックの事を思い出します。
それは体操競技でした。

演技が終わって採点になると、露骨過ぎるえこひいき。
誰が見たって、何処の国の人が見たって、
あまりにも露骨な公平さのカケラも無い採点。
こういった不誠実な行為って、日本人にはありませんね。

近年、大問題になっているドーピング。
国がかりでの組織的な、世界を相手にした詐欺。
アンタ達はそうまでして、ロシアという国を誇りたいのか。
そんな行為は、ロシアって、そんな姑息な国だと思われてしまい、
逆効果だと何故思わないのでしょうか。

こういった事を見ていると、
行った事はありませんが、私はロシアに旅行に行きたいとは思わなくなります。
あんな国では、怖くて車なんかには絶対に乗れません。

歌声喫茶で、よくロシアに行く、ロシア通の方が居るんで、
訊いた事があるのですが、
それによると、やはり彼等の運転は乱暴だと言ってました。
とてもじゃないけどロシアなんかには行かれない。

全く彼等って(脳みそ)があるんだろうか?
こいつらって、どうしようもないバカだ!
本気でそう思ってしまいます。


ロシアね~・・・
確かにロシア民謡とか、ロシアの歌だけは素晴らしいんだけど、
そして、ロシア娘って本当に美しいんだけど、
だけどな~、彼等の頭の中って、どうなってんのかな~??


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最高の映画・・ローマの休日

2016-09-14 17:18:22 | 映画


「ローマの休日」は1953年のアメリカ映画です。

ヨーロッパの架空の国の王女(アン王女)が、欧州親善旅行に出かけます。
しかし、型にはまった旅行とその国の名士たちとの懇談。
お仕着せの食事会といった毎日に、若い王女はもうウンザリ。

宿泊の宮殿から、夜のパーティーを眺めていた王女は、宮殿を脱走します。
たまたま宮殿に入って来た軽トラックの荷台に紛れ込んでローマの街へ。
荷台から眺めるローマの人々の暮らしに、王女は我を忘れて眺めいります。

睡眠薬の副作用で眠くなった王女は、街中のある場所で寝入ってしまいます。
そこに通りかかったのが、
アメリカの新聞記者・ジョー・ブラットリー(グレゴリー・ペック)
彼のアパートで一夜を明かした王女。
新聞記者のブラッドリーは、彼女が昨夜、行方不明になった王女である事に気づきます。



真実の口・・は、その口に腕を入れると、嘘をついている人の腕は失くなってしまうという伝説があるみたいです。
ブラッドリーの腕が失くなってしまうという演技に、
純粋な王女は騙されて、思わず彼に抱きついてしまいます。

スペイン広場で偶然、再び出会ったフリをして、彼は王女に接近。
大スクープにしようと企みます。



友人であるカメラマンの、アービング(エディー・アルバート)を呼び寄せ、
スクープ写真を撮らせようとします。





ブラッドリーに借りたお金で王女は美容室に入り、
髪を大胆にショートカットにしてしまいます。
それが、当時、日本でも大流行になった(ヘップバーンカット)です。



ブラッドリーが目を離したホンの隙に、
王女は勝手にスクーターの運転を見よう見真似でしてしまいます。
ビックリしたブラッドリーが後部座席からスクーターを操縦しますが、
ローマの市内を大迷走。

イタリアを代表するスクーターのベスパは、この映画の影響が大きかったんだと思います。
現在になっても日本では、ベスパ人気はまだまだありますね。
そして、大柄なグレゴリー・ペックが身体を折り曲げて窮屈そうに乗っている、
フィアットの小さな車の人気も大したものです。



ローマでの仮の姿もいつまでも続きません。
宮殿に帰った王女は、翌日に会見をします。

そこに現れたのが、ブラッドリーとアービング。
アービングが他の記者達が大型カメラで写真を撮っている中、
あのライター型の小型カメラで王女をパチリ。
その瞬間、王女は昨日の事に目覚めさせられます。

アービングが「ローマ記念の写真です」と言って、
王女に手渡した封筒の中には、ギターを護衛の男に振り下ろしているビックリ映像が。


この映画のヒロイン候補には、
エリザベス・テーラーや、ジーン・シモンズといった大女優が居たそうですが、
監督のウィリアム・ワイラーは無名の、オードリー・ヘプバーンに白羽の矢を立てたそうです。
彼女は、この作品で、
アカデミー賞、最優秀主演女優賞を受賞しました。

当時、ヘプバーンは24歳。
グレゴリー・ペックは37歳。
エディー・アルバートは47歳でした。

私は映画が、特に洋画が大好きなんですが、
その中でも戦争映画、特に軍艦の戦争映画が大好き。
恋愛映画などは、あまり好きではないというのに、
この「ローマの休日」は数ある印象に残る映画の中でもピカイチ。
これほど素晴らしい余韻にいつまでも浸れる映画はありません。

〇・・ローマの舞踏会での王女のスカートの中の靴。
〇・・宿泊の宮殿から脱走する軽トラックの荷台からの風景。
〇・・美容室で髪の毛を大胆にカットするシーン。
〇・・スペイン広場でブラッドリーが偶然を装って王女に接近するシーン。
〇・・カメラマンのアービングが超小型のライター型カメラで、
   王女が初めて煙草を吸う所を撮影するシーン。
〇・・スクーターに乗って暴走するシーン。
〇・・真実の口で、手が失くなってしまったブラッドリーに王女が抱き着くシーン。
〇・・川岸で行われたパーティーで、王女の国の警護隊員に、
   王女がギターを振り上げ、その瞬間を撮りそこねたブラッドリーが、
   「もう一度」と叫ぶシーン。
〇・・川に落ちてずぶ濡れになった王女と、ブラッドリーが
   熱く抱き合ってキスをするシーン。
〇・・翌日の宮殿での記者会見で、何処の都市が一番良かったかと訊かれ、
   台本通りに「何処の都市も素晴らしく・・」と言いかけ、
   そこで言葉をとぎって「ローマです」と、
   心からの言葉を発してしまい、周囲の人達をビックリさせるシーン。
〇・・記者会見で、カメラマンのアービングが、
   「ローマでの記念写真です」と言って、ギターを振り上げる王女の写真を、  
   手渡し、その写真を見た王女の何とも言えない豊かな表情。
〇・・全ての会見が終わり、王女は退席し、
   ブラッドリーがポケットに手を入れて、独り宮殿を後にするラストシーン。

映画の何がいいって・・・
これほど、あのシーンをもう一回観たいというシーンの多い映画、他にあるでしょうか?
戦争映画の「眼下の敵」・・いい映画です。
ですが、この映画には敵わない。

最近の映画は、観ている時は、そこそこ面白くても、
観終わって映画館を後にする時になると、殆ど印象に残らないし、
得も言われぬ余韻がいつまでも残るなんて経験は無いのです。

それが、「ローマの休日」は、荒唐無稽の馬鹿々々しい映画と言ってしまえばそうなんですが、
観終わった後の、いつまでもいつまでも心が温かくなる余韻は何なんでしょうね?

これほどの映画を、私は知りません。


追伸・・・

この映画が素になって後世に与えたものが、いくつかあります。

〇・・オードリー・ヘップバーンが大女優になった事。
〇・・イタリアが観光地として、一躍脚光を浴びる様になった事。
〇・・ヘップバーンがロングヘヤーからショートカットしたヘヤースタイルが、
   ヘップバーンカットとして大流行した事。
〇・・ヘップバーンが履いていたサンダルが、
   ヘップバーンサンダル(通称ヘップ)として、日本で大流行した事。
   現在でもそういったサンダルの名前として(ヘップ)で通用してますね。






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