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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

これが力士って言えますか?

2016-09-25 07:07:37 | 相撲
2016年9月場所3日目 服部桜ー錦城


これは、今場所3日目にあった(序の口)の取り組み動画です。
私はこれを、ネット記事の「敗退行為」という言葉に興味を持って見ました。

一体、敗退行為とは、どういう意味なんでしょう?
「わざと負けること」だそうです。
エッ、わざと負けるって何のこと?
その答えが、この動画です。

負けた細身の力士は「服部桜」という四股名です。
まだ18歳。入門して1年の力士。
身長180センチ。体重は、たった67キロ。
67キロって、俺より軽いじゃないか。

この力士は自分から望んで相撲界に入門したという事です。
最初は親方に断られたのですが、
今度は家族の承認を得て、再び部屋の扉を叩いて来たそうです。
そこまで言うならと、親方も入門を認めたのでしょうね。

入門時は70キロあった体重が何故か3キロ減ってしまいました。
きっと激しい稽古のストレスとかなんでしょう。
それにしても67キロの相撲さんなんて見た事ありません。

さて、対戦相手の錦城はどんな力士かというと、
服部桜と同じ18歳。
ただ、腕相撲16~21歳部門の全国2位という力自慢。
身長185センチ。体重130キロ。
その将来を嘱望されている力士です。

この映像を観た人は、皆さんが見てはいけないものを見た。
信じられないものを見た・・そんな思いでしょうね。
私も全く同感です。

それは、この3月29日に書いた私のブログ、
「バカヤロー横綱」の時と同じです。
あの時は、千秋楽の横綱同士の結びの一番に、
大バカヤローの白鵬が、変わり身で勝ったという、
前代未聞の信じられない事件でした。

そしてこれは、モンゴル人なんかじゃないぞ、日本人なんだぞ。
日本人の若いこれから角界を背負って立つべき力士が、
こんなぶざまな背任行為をやっていいと思ってんのかッ!
冗談じゃないぞ、それは相手に対しても客に対しても失礼千万。

服部桜の敗退行為(わざと負け)は2度目だそうです。
こんな、もうどうし様もない力士は、力士とは言えません。
相撲というのは格闘技です、闘争心の無い者は来ちゃダメッ!
相手が強そうでビビった~ッ!
そんな弱虫が、相撲取りなろうなんて思うんじゃないよ。
角界は、こんな大バカヤローを追放すべきです。
親方は、こいつをクビにすべきです。

あ~、情けない。
私の好きな大相撲は一体何処に行くのでしょう?
外人ばっかり・・さて日本人は・・情けない。
どっちを向いても大バカヤローばっかり。

今場所は、何とか(豪栄道)が初優勝しましたし、
1月には(琴奨菊)が、日本人として、
10年ぶり(だったかな?)に優勝しましたが、
彼等の未来など、ある筈ありません。
彼等の優勝なんて一回こっきりなんですから、
浮かれまくっていていいんです。
(稀勢の里)彼の横綱なんて前から言ってるでしょ、
絶対に無いんですよ。
稀勢の里って力士はいくら期待したって無駄なだけの力士。
また仮に横綱になったら、負け越し続きで、即引退の力士なんですよ。

そして、日本人の下位力士は・・本当にバカヤロー。
バカヤロー・バカヤロー・バカヤロー・・・

俺の好きな相撲は、どっかに飛んで行っちゃった~(涙)
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ザ・タイガース・・瞳みのるの事

2016-09-23 12:31:42 | 歌声喫茶
ザ・タイガース復活コンサート2013


先日、友人から、
グループサウンズ・タイガースのコンサートのDVDを頂きました。
タイガースの元メンバー6人がやっと全員集合した記念すべき物でした。

私はグループサウンズの時代の人間ですが、
それほど好きだった訳でもなく、
また、タイガースだからといって別にそれほどの思いもありません。
しかし、色々見ていたら、
メンバーの中でピー(瞳みのる)という人物に興味を覚えました。
彼はメンバーと、一切の交流を絶ち、40年間その姿を現さなかったそうです。
エッ!40年間・・なんで??



瞳みのるは、左側の黄色いシャツです。

タイガースは、1965年に京都で結成。
本格的な音楽活動は、大阪からでした。
東京へ進出するきっかけを作ったのは、内田裕也です。
渡辺プロの製作部長だった、すぎやまこういち氏が熱烈な、
阪神タイガースファンだったとかで、
「君達、大阪から来たの、だったらタイガースだ」
というのが名前の由来みたいです。

タイガースは1967年2月~1971年1月24日。
解散は武道館のコンサートでした。
1981年11月~1983年まで、復活した事もあったみたいです。




さて、ここからがいよいよ瞳みのる、の話になります。

武道館での解散コンサートが終わると、
瞳みのる(ここからはピーの名前で書きます)
ピーは有楽町で内田裕也の食事会に出席した後、
待たせてあった家財道具一切を積み込んだ2トントラックで、
東名・名神高速道路をひた走り、翌25日に京都の実家に到着しました。

同年4月より中退した京都府立・山城高校定時制に復学。
1972年に慶応義塾大学文学部・中国文学科に入学。
何故、中国語かと言えば、
高校時代、唯一好きになれた科目が中国語だったとか。

タイガース時代に、当時流行の最先端に居る作家や、
文化人の集まる店に通っていて、周りの会話についていけなかった思い。
自分には教養が足りないと痛感する事が多かった。
それで解散する1~2年前から「本気で勉強したい」と思う様になり、
将来の学費を稼いでおこうと貯金を始め、
辞める時は1000万円ほど貯まっていた。

早稲田か慶応に絶対うかるという目標を立て、
一年間、死にもの狂いで勉強した。
髪を洗う時間が勿体ないと坊主頭にしたり・・
彼が努力家だった事はタイガース時代でも皆から一目置かれていた。

学校からの帰り道で、澤田研二が表紙の雑誌を見かける事もあったそうですが、
「10年後を見てろよ、お前らが一文無しになっても俺だけは、
一流の研究者になってやる」と思っていたそうです。

慶応義塾大学卒業後は修士課程に進み、教員免許を取得。
1977年より慶応義塾高校で教鞭をとる傍ら、
博士課程において中国文学の研究を続ける。
1981年に34歳で北京大学に2年間留学。
帰国後は慶応高校で教師を続け、
漢文・中国語・関連の参考書、テキストブックの著者、監修者として活動。

高校の教壇に立つ様になってからは、
元タイガースという事で、様々な波風もあったのですが、
一教師としてのスタンスを保持し、どんなに懇願されても、
一切沈黙して語らなかったそうです。

1981~1983年のタイガース再結成時にも参加せず、
マスコミから度重なる取材にも、徹底して拒否の姿勢を貫いたそうです。



妻は息子が元芸能人の子供と見られる事をすごく嫌がっていました。
彼等が20歳になるまでタイガースに居た事を、
話してはいけないと言われていました。
その妻とは62歳の時に離婚。

2010年。
33年間勤務していた高校を退職。
自分の子供二人に、お前たちの親父はこんな事をやっていた。
こういう事を考えていた。という事を伝えたくなったそうです。

2011年には自伝、
「ロング・グットバイの後で。ザ・タイガースでピーと呼ばれた男」を出版。
この本はベストセラーになっているそうです。

2011年1月6日。
沢田研二の正月コンサートで、ピーは観客席に座り、
40年ぶりの姿に客席がどよめいたそうです。

2013年12月3日。
タイガース復活全国ツアーが始まる。
そして最終日の12月27日の東京ドーム。
そこに病身の、岸部シローが車イスで姿を見せ、
タイガースの元メンバー6人が全員揃ったのです。

全員揃ってみると、一番若々しい姿を保っていたのがピーでした。
ピーの気持ちの中には、
タイガースのメンバーとして無様な恰好は出来ないという気持ちが、
ずっとあったそうです。
(一番離れていた彼が、メンバーである事を一番意識していたのでしょうか?)

ピーこと、瞳みのるは、現在、北京に住んで居て、
日本と中国との文化交流に力を注いでいるみたいです。


この日記には一部、
ブログ「澤田研二迷的日常 ジュリーのファンとしての日々」を引用させて頂きました。
コメント (4)
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バクさんのお嬢さんがデビュー

2016-09-22 07:27:29 | 歌声喫茶
16.9.20.瑠璃色の地球・桜のたより


歌声喫茶の司会者として有名な、
あのバクさんのお嬢さん、桜田姉妹が『桜のたより』という名前で、
2016年9月20日、鶴見サルビアホールにて、
正式に歌声界にデビューしました。



歌声喫茶「星と涼風」主催者の、
左・・星さん、右・・石原さんにはさまれて、
右が姉の、みのり、さん。
左が妹の、萌美(もえみ)さん。







フランスでは、社交界にその年にデビューする乙女を「デビュタント」と言います。
「桜のたより」・・彼女達も、まさにデビュタントですね。

今後、私達歌声仲間は彼女達を温かい目で見守ると共に、
強烈に熱烈に、激しく抱きしめ・・
あ、抱きしめちゃダメだ、バクさんにぶっ飛ばされちゃう。
応援、声援していきましょうね。



彼女達が美しいのは、みんな俺に似たからだと、
あのバクさんは言ってましたよ。

そ~ですね、バクさんっていわゆる(イケメン)だもんな~。
みのりちゃん、もえちゃん・・ど~でしょ~か?(笑)

コメント (2)
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楽しかった暗室作業

2016-09-20 07:55:05 | 写真
暗室プリントデモ


若い頃に撮っていたのは、その全てが白黒写真でした。
カラー写真は、記念写真しか撮りませんでした。

ずっと後になって、カラーでも、
ネガフィルムではなく、リバーサルフィルムで撮る様にもなりましたが、
やはり、写真は基本的には白黒で勝負という思いがあったのです。

白黒写真となると、それは当然、暗室作業に結びつきます。
4畳半の私の部屋を、黒いカーテンで覆って真っ暗にします。
カーテンと言っても、隙間からの光を防ぐ為に、
端には目張りのテープを張るのです。
私の部屋は、いちいち暗室カーテンをセットするのが面倒なので、
常時付けっ放しで、普通は電気を点けて過ごす様になってしまいました。
思えば暗い青春になってしまったな~(笑)

真っ暗では何も見えないので暗室ランプを点けます。
それは赤い電球なので、部屋は薄暗い赤色になっています。
緑色の暗室ランプもあったらしいのですが、
仲間内でも緑色のランプを使っている奴は誰も居ませんでした。
どっちでも同じだとは思うのですが。

テーブルの上にあるのは引き伸ばし機。
引き伸ばし機には、ラッキーとフジの2種類がありました。
その他にも、確かニコンのもあった様な・・
私はラッキーを使っていました。
引き伸ばし機にフィルムをセットして下のイーゼルに載せてある、
印画紙に感光させる訳です。
その感光時間が最大の決め手でした。

印画紙には、主に月光とフジの2種類があった様に記憶しています。
どっちでも好きな方を選ぶといっても、
結局は何となく選んでいたみたいですが。
印画紙には何号という型番があった様な記憶があるのですが、
はっきりとは忘れました。

感光させた印画紙を、薄暗い赤い電球の下で、
バットと言われる四角い金属製の箱に入った現像液に浸します。
すると徐々に映像が浮かび上がってくるのです。
この瞬間が暗室では最もワクワクする瞬間なのです。
暗い中で、写真の仕上がり具合を判断して引き揚げ、
次に停止液という強烈な酸の匂いのする液体の中に浸します。
暗室は、この停止液の為に酸っぱい匂いで充満しているのです。

像が停止すると、次は定着液です。
これが済むと、もう明るい所に出しても何の心配はありません。
むしろ、早く出来上がり具合を明るい場所で見たいのです。

これは余談ですが、
この定着液を毎日少しづつ飲ませると、
医者にも解らない様に人を殺せるそうです。
これは写真の先生がそう言ってました・・・
ヒ素なんかではバレちゃうんですね。

暗室も慣れると、色々なテクニックが使える様になります。
目玉焼き・・知る人ぞ知る作業ですね。
私は一旦現像した印画紙を、印画紙同士で張り合わせ、
もう一度感光させて、独特の写真を作り上げたりしました。
また、コピーフィルムという特殊なフィルムがあり、
それは黄色い色をしたフィルムでしたが、
こいつで写真を撮ると、意外な写真になったのを覚えています。



また、新宿のヨドバシカメラでは、24フィートだったかな?
長いフィルムを買ってきて、それを普通目にするパトローネと呼ばれる
丸い筒に詰め直す作業をするのですが、
それは暗室ではなく、暗箱と言われる箱に手を入れてしたのです。

近所に懇意にしている写真屋があって、
ヒマな時など、そこに行っては時間潰しをしていました。
その写真屋のオヤジは野鳥を撮るのが趣味で、
長野県とかに時間があると行ってたみたいですが、
撮った写真を見せてもらったら、あまりの下手さにビックリ。
以後、そういった手の話をするのは禁句になってしまいました(笑)

そのオヤジの話ですが、
「暗室ランプが切れた~」と言って駆け込んでくる若者が居た時代は良かった。
母親に連れられて高級カメラをセットで売って下さいなんて、
ばか者が来る様になると、もうやってらんね~やと・・そんな事を言ってましたね。

友人に安アパートの一階に独り暮らしの小汚い男が居て、
彼は、小便は流し台で放尿。(便所まで行くのが面倒)
暗室作業で使った液体は全部、窓の外に棄てていたので、
窓の外には雑草の一本も生えていなかった。
彼の部屋は6畳でど真ん中に万年布団が敷きっぱなし、
引き戸を開けると、万年布団まで、ポーンと跳んで行くのです。
彼の部屋を訪問しても、万年布団だけが唯一座れる場所でしたね(爆)

その同じアパートにはやはり写真の仲間が住んでいました。
そいつは、薄汚いその男と正反対で、いっつも綺麗にしてました。
ちゃんと彼女なんかも居て、キチンとデートもして、
サイモン&ガーファンクルのCDなど聴いて青春をやってたな~。
どこか地方の営業写真館の息子だったけど、
今ではオヤジの後を継いで写真館やってるのかな?

暗室には色々な思い出が復活します。
あれも青春の一ページだったんですね。
真っ暗な部屋での暗い作業・・でも楽しかった。


コメント (2)
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思い出の味、匂い

2016-09-19 14:04:51 | 日記
思い出というのは、記録できるものと、出来ないものがあります。

味・・・

これは記録できないものですね。
子供の頃に食べた(麦こがし)
これが、どんな物だったのか?殆ど覚えていなく、
また味に関しても、まるで覚えていないのです。
ただ、嗜好食品の少なかった時代だからこそ存在した食べ物であったのでしょう。

(油かす)
これは、私の家の隣のご主人が場で働いていたので、その恩恵に授かれたのです。
職場から持ち帰った油かすを私達はよく頂いて食べました。
私の身長がまあまあ伸びたのも、油かすの為だったのではなんて思ったりします。
一般の人は勿論そんな物があるのも知らなかったでしょうね。
それはカレーによく付いてくる(ナン)みたいな物でした。
味は全く覚えていませんが、時々懐かしくなりまた食べたくなるのです。

母が作る物で美味しかったオカズ。
それは(八宝菜)でした。
母はあまり料理上手ではなかったのですが、
この八宝菜は美味しかった。
今それが食べたかったら、自分がその味を思い出して再現する以外に方法はありません。
でも、私がそんな事をする筈もなく、思い出の中にしか、もう無いのです。

中国人の元妻が作る(水餃子)
これは、天下一品でした。
本当に、この餃子だけはサイコーの美味しさでした。
今だに、餃子専門の店で外食をしても、彼女の味を越える餃子に出会った事は無いのです。

これも中国人というか台湾人でしたが、
付き合っていた台湾女性の作る台湾料理。
初めて彼女の手料理を食べた時、
あまりの美味しさに、言葉が出なくなり、何故か涙が出てきたのを思い出します。

みんな思い出の中にしか存在しない味ですが、
そういった食べ物に出会えた事は、考えるに幸せだったと思います。


匂い・・・

これも味と同じで記録に出来ないものですね。

小学校に入学する時の、ランドセルの真新しい皮の匂い。
教科書、鉛筆、筆箱、クレヨンの匂い。
教室の机やイスの杉の木の匂い。
母が風呂上がりに顔を拭いてくれたタオルの匂い。
今では無くなってしまった好きな石鹸の匂い。
中学生になった時の学生服の匂い。
真新しい運動靴のゴムの匂い。
初めて買った革靴の匂い。
ブラスバンドで吹いていたラッパの真鍮の匂い。
大人の世界に一歩足を踏み入れた整髪料の匂い。
好きだった女性とすれ違った時に、フッと匂ってきた香り。


声・・・

これは記録できますが、その時に機材が無ければ残りません。
ですから、私は娘の成長記録として、8ミリカメラをよく回していました。
小さい時に発した声は、大人になったらもう記録できないからです。


科学が進歩しても、思い出の中でしか残らないものは、やはりあります。
時々、何かの時にフッと思い出す事があって、
そういった時は、視線が中空をさ迷い、心が温かくなるんですね。
それがいつやってくるのか?
何かの折にそれが来た時は、まさに桃源郷の世界となります。
人間の心って不思議ですね。
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