アレクサンドル・デュマと聞いて、それが誰か即答できる人はどのくらい居るのでしょうか?
アレクサンドル・デュマ(1802年ー1870年)68歳。
彼はフランスの作家です。
「モンテクリスト伯」「三銃士」を書いた作家です。
デュマを語るには、父親であったトマ、アレクサンドル・デュマから語らなければなりません。
トマ、アレクサンドル、デュマはフランス人の侯爵が父親で、カリブ海ハイチで、
奴隷であった女との間にムラート(白黒混血)として北フランスで生まれました。
母が死んだ後、他の3人の兄弟と共に、実の父に奴隷として売り飛ばされますが、
トマは父親がフランスへ帰国すると買い戻されて私生児として認可されフランスに行きます。
そこでナポレオン軍に入隊し、数々の武勲をあげ、陸軍中将にまで出世します。
町の有力者であったフランス人の娘と1792年(30歳)で結婚。
この夫婦からデュマは1802年に生まれます。
ですからデュマは1/4黒人の血が入った、クォーターなんです。
これはデュマの生家です。
父はナポレオンとの仲が不仲になり資産を全然残せませんでした。
しかし父親の友人であった将軍のお蔭で1823年(21歳)で職を得る事ができました。
その時、隣人であった娘を誘惑して、翌年私生児を産ませました。
これが後に(小デュマ)と呼ばれた息子です。
本当に手が早いんですね。
1831年には他の女性との間に女児を産ませ、
1840年には女優と結婚したのです。
しかし、劇作家としての夢は追い続け、観劇をし続けていました。
1836年に新しいメディアである新聞が発行されるようになり、
デュマはそれに「三銃士」「モンテクリスト伯」を連載し、名声を確固たるものにします。
しかし、収入も莫大なら、金遣いも莫大な人物でした。
それからのデュマは順風満帆とはいかず、数々のトラブルに見舞われます。
しかし、巨額の資産を得て、私邸モンテクリスト城を建設します。
晩年はそれらの資産も失っていたようです。
ですが「モンテクリスト伯」を初めとする数々の名著。
その影響力は今でも健在と言ってもいいでしょう。
デュマを(大デュマ)と言い、その子供デュマを(小デュマ)などと言います。
小デュマ(アレクサンドル・デュマ・フィス)1824年ー1895年(71歳)
彼の若い頃、周囲からの偏見は、その後の作風に大きく影響を及ぼしました。
20歳の頃、7人もの大金持ちのパトロンを持つ高級娼婦マリー・デュプレシと出会い、恋に落ちます。
マリーは間もなく病死しますが、彼女との思い出を「椿姫」として出版し、
これが小デュマの代表作となりました。
私にはアレクサンドル・デュマの存在は大きなものがあります。
そうです、私が世界一の小説と思う「モンテクリスト伯」です。
フランス製の6時間半に及ぶビデオを何度も繰り返し観てるうちに、
遂に5回目の読破が、また始まってしまったのです。
一字一句の持つ意味の深さに感動し、恐れを抱く時もあるのです。
この小説界の金字塔を、日本のテレビドラマ・映画にしたのがあるみたいですが、
そんな恥も外聞も無い、姑息な行為はどうか永遠にやめてほしい。
あれは人種の違う東洋人などがやってはならない行為です。
白人が宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘をやってる様なものです。
そんなバカバカしい映画を、観たいなどとは絶対に思いません。
それと同じです、バカバカしいにも程がある。恥を知りなさい。
アレクサンドル・デュマ。本当に素晴らしい。
貴方の居ない文学界など・・・
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