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今回の京都旅行は、
2019日本のうたごえ祭典京都に参加する為ですが、
私の心の中では、(建礼門院に逢いに行く旅)でもあったのです。
11月30日、
朝5時50分に家を出ました。
朝焼けの京王線・武蔵野台駅から、いざ京都へ。
日本のうたごえ祭典は別記の通りですが、
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明日はいよいよ大原へ、
胸がときめきます。
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ホテルを出ると河原町通りの街路樹が色づいていました。
大原へは、地下鉄で国際会館前下車。
そこからバスで25分の道のりです。
京都駅からは直線距離で15キロくらいありそうです。
帰りは大原から京都駅まで、ずっとバスで帰りましたが、
渋滞や乗降客の多さで1時間20分かかりました。
平安時代では、その距離は気が遠くなるくらい遠かったと思います。
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道の脇にはこんな可愛い狸がいました。
寂光院といえば建礼門院(平徳子)
時の最高権力者は平清盛。
その最高権力者から、蝶よ花よと溺愛された徳子ほど、
我が世の春を謳歌した女性は居なかったでしょう。
その当時の身分制度からいっても、我が世の春なんて人物は誰一人も居なかったと思います。
建礼門院は17歳の時に6歳年下の高倉天皇と結婚します。
権力者たちの結婚に恋愛結婚などあり得ません。
6歳年下というのが政略結婚という事を示しています。
7年後ようやく子供が生まれました。
それが安徳天皇です。
しかし、最高権力者である父親の平清盛が、
建礼門院26歳の時に急死してしまいました。
それからが、建礼門院の地獄を見る悲しい人生となるのです。
それは、まさに天国と地獄を生きながら味わう悲劇となったのでした。
一の谷の戦い、屋島の戦いに敗れ、
平家はとうとう本州最西端、下関の壇ノ浦まで追い詰められ、
背水の陣で最後の戦いに臨みますが、
戦の天才、源義経に攻められ、断末魔を迎えます。
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敗戦を悟り、いよいよ最後を迎えた平家一門はことごとく海に身を投げます。
建礼門院の母親、時子に抱えられ、安徳天皇は海に身を投げますが、
安徳天皇に「これから何処に行くのですか?」と問われた時子は、
「海の下にも都はございます」と言って最期を迎えます。
殆どが死んで行った中で、
建礼門院は身に着けていた衣服(十二ひとえか?)が浮力があった為に、
なかなか沈まずに源氏の手にかかって引き上げられてしまいます。
引き揚げられた建礼門院は、最初、京都の市街地の寺に預けられますが、
そこは騒がしくて静かな心になれないという建礼門院の願いで、
京都から遠く離れた大原の山里にある寂光院へ移ります。
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建礼門院はお付きの女性幾人かと、この景色を見ながら、
細いあぜ道を傷ついた重い心で歩いていったのですね。
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振り返れば京の都が見える(気がした)・・・
たった5年前には、自分は天国を謳歌していたのに、
今の自分には誰一人として身内は居なく、
ことごとく死んでしまったという耐えがたい事実のみ。
そして、これからの自分はそれを独りっきりで生きて行くしかないという現実。
29歳の若い女性には耐えられなかったでしょうね。
彼女の心を想うと本当に悲しい気持ちがしました。
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寂光院の山門の前で。
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寂光院前の柴漬け屋さん。
柴漬けは建礼門院が地元の人が差し入れてくれた漬物を気に入り、
柴漬けと名付けたという伝承があるそうです。
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寂光院の境内です。
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寂光院は2000年に心無い人の放火により本堂が消失してしまいましたが、
その後見事に再建され、
本堂の中には新しい建礼門院像が復元されていました。
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境内で(お抹茶)を頂きました。
美味しかったというより、建礼門院の心に些かでも触れられたのかな?
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苔が綺麗でしたね。
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境内にある建礼門院ゆかりの井戸だそうです。
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境内の鐘・・諸行無常の鐘。
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寂光院への道には、こんな泉がありました。
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道すがらは紅葉していました。
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この庭を見ながら彼女は、全滅していった平家一門の人達を、
安徳天皇を弔いながら生きるしかなかったのでしょうね。
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庭には可愛い合掌地蔵が居ました。
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帰りがけに、このお店で昼食を。
妻は田舎御膳、私はキノコ蕎麦を・・
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大原女(おはらめ)という装束がありますが、
大原は薪の原産地なので、薪を頭に乗せて京の都まで売りに行った衣装みたいですが、
また、建礼門院に仕えた阿波内待が山仕事をした時の衣装だとも言われているそうです。
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1186年、平家が滅亡した1年後、
後白河法皇が突然、寂光院を訪れます。
後白河法皇は策略の限りを尽くした大天狗。
つまり海千山千の底知れぬ狸オヤジ。
平家滅亡の引き金となった法皇の突然の訪問に建礼門院は最初それを拒絶しますが、
ついにはそれを受け入れ法皇と最初で最後の対談をしました。
いわゆる(大原御行)です。
時に後白河法皇は59歳。
建礼門院は31歳でした。
建礼門院は39歳で亡くなったという説と、
58歳だったか(?)に亡くなったという説があるみたいですが、
真実は全て歴史の闇に埋没して真相はわかり様がありません。
祇園精舎の鐘の声で始まる平家物語は、
後白河法皇の大原御行があり、
建礼門院がこの世の無常を悟るところで終わっています。
祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
たった数年の間に、天国から地獄へと突き落とされた若き女性、建礼門院。
彼女の心は如何ばかりだったでしょう。
語り合える身内、親族をみな失い、これからを生きねばならない人生。
その彼女の心を偲ぶ旅でもありました。
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