古い話しになりますが、
2005年7月に、上高地ー岳沢ー穂高岳ー槍ヶ岳へ単独登山をしました。
その時の記録などは全然無く、あるのは写真だけ。
50代後半でした。
多分、特急あずさで行ったのだと思います。
バスで知り合った独り旅の女性と河童橋の畔で一緒に昼食。
この女性はよく覚えていますが、明るい既婚者でした。
大多数の登山者が行くルートとは正反対の岳沢ルート。
その日は岳沢ヒュッテに泊りましたが、
翌日は雨だったので、もう1泊小屋に停滞での宿泊。
他の登山者は雨の中を登って行ったので、私一人だけがその夜の宿泊者でした。
停滞していた日中はまるでする事がなく、
本箱にある本を読んで過ごしました。
その時に読んだ外国人の書いた本。
タイトルも覚えていないのですが、その内容が離婚して悩んでいた私には、
胸に突き刺さる内容だったのですが、その時にはあまり気に留めてはいませんでした。
後になって「あの本をもう一度読みたい」
それには岳沢ヒュッテに行くしかないと考えていたのですが、
その希望は永遠にあり得なくなってしまったのです。
何故なら、それから半年後の翌年1月。
岳沢ヒュッテは大雪崩によって小屋は跡形もなく崩壊してしまいました。
悪い事は重なるもので、小屋主の上條岳人さんが、
上高地で4月に荷揚げのトラックに轢かれて事故死してしまったのです。
上條岳人さんは、
1892年頃に、あのウェストン夫妻の登山ガイドを務め、
明神池畔に有名な嘉門治小屋を建てた、上條嘉門治氏の子孫なのでしょうか?
よく分かりませんが、苗字が同じですからね~。
私が泊ったのが、岳沢ヒュッテ最後の姿になってしまったのですね。
重太郎新道での写真。
重太郎新道には有名な場所、紀美子平(きみこだいら)があります。
穂高山荘の初代あるじ、今田重太郎は、
昭和25年頃、遭難事故の多い、前穂高~上高地を結ぶ岳沢に、
安全な登山できる道の建設にとりかかります。
妻のマキと幼少の紀美子を伴っての仕事でした。
険しい前穂高の山腹に小さな平地を見つけ、テントを張り、
その中に紀美子を寝かせて夫婦は工事にいそしみました。
やがて出来上がった道は、誰呼ぶことなく重太郎新道と呼ばれました。
紀美子は23歳のある日突然病死してしまいます。
そして、いつしかテントを張った場所を紀美子平と呼ぶようになったのです。
前穂高岳を経由して奥穂高岳に登りました。
奥穂高岳からは有名な怪峰ジャンダルムが眼前に見えます。
以前、この奥穂高からジャンダルムへピストンで往復しましたが、
往復約2時間のこの難ルートはスリル満点です。
この翌年には、逆ルートで、
西穂高岳からジャンダルムを経由して奥穂高岳の縦走をしました。
12時間に及ぶ超難関ルートは本当にきつかった。
奥穂高岳から北穂高岳に行ったら、
丁度、山渓のカメラマンが雑誌のモデルさんの写真を撮っていました。
北穂高からは、有名なあの大キレットを通過して南岳山荘へ。
右がジャンダルム。
真ん中が奥穂高岳。
左の北穂高岳の左端に北穂高山荘が見えます。
そして槍ヶ岳へ2回目の登頂。
正面に見えるのが奥穂、北穂の山塊です。
それにしても槍の頂上はやっぱり狭いです。
上高地からのバスから見えたのは、
別れた妻と一緒に行った事のあるペンション、アルプホルン、
というオチまで付いての北アルプス、いいとこ取りの思い出の山行でした。
2005年7月に、上高地ー岳沢ー穂高岳ー槍ヶ岳へ単独登山をしました。
その時の記録などは全然無く、あるのは写真だけ。
50代後半でした。
多分、特急あずさで行ったのだと思います。
バスで知り合った独り旅の女性と河童橋の畔で一緒に昼食。
この女性はよく覚えていますが、明るい既婚者でした。
大多数の登山者が行くルートとは正反対の岳沢ルート。
その日は岳沢ヒュッテに泊りましたが、
翌日は雨だったので、もう1泊小屋に停滞での宿泊。
他の登山者は雨の中を登って行ったので、私一人だけがその夜の宿泊者でした。
停滞していた日中はまるでする事がなく、
本箱にある本を読んで過ごしました。
その時に読んだ外国人の書いた本。
タイトルも覚えていないのですが、その内容が離婚して悩んでいた私には、
胸に突き刺さる内容だったのですが、その時にはあまり気に留めてはいませんでした。
後になって「あの本をもう一度読みたい」
それには岳沢ヒュッテに行くしかないと考えていたのですが、
その希望は永遠にあり得なくなってしまったのです。
何故なら、それから半年後の翌年1月。
岳沢ヒュッテは大雪崩によって小屋は跡形もなく崩壊してしまいました。
悪い事は重なるもので、小屋主の上條岳人さんが、
上高地で4月に荷揚げのトラックに轢かれて事故死してしまったのです。
上條岳人さんは、
1892年頃に、あのウェストン夫妻の登山ガイドを務め、
明神池畔に有名な嘉門治小屋を建てた、上條嘉門治氏の子孫なのでしょうか?
よく分かりませんが、苗字が同じですからね~。
私が泊ったのが、岳沢ヒュッテ最後の姿になってしまったのですね。
重太郎新道での写真。
重太郎新道には有名な場所、紀美子平(きみこだいら)があります。
穂高山荘の初代あるじ、今田重太郎は、
昭和25年頃、遭難事故の多い、前穂高~上高地を結ぶ岳沢に、
安全な登山できる道の建設にとりかかります。
妻のマキと幼少の紀美子を伴っての仕事でした。
険しい前穂高の山腹に小さな平地を見つけ、テントを張り、
その中に紀美子を寝かせて夫婦は工事にいそしみました。
やがて出来上がった道は、誰呼ぶことなく重太郎新道と呼ばれました。
紀美子は23歳のある日突然病死してしまいます。
そして、いつしかテントを張った場所を紀美子平と呼ぶようになったのです。
前穂高岳を経由して奥穂高岳に登りました。
奥穂高岳からは有名な怪峰ジャンダルムが眼前に見えます。
以前、この奥穂高からジャンダルムへピストンで往復しましたが、
往復約2時間のこの難ルートはスリル満点です。
この翌年には、逆ルートで、
西穂高岳からジャンダルムを経由して奥穂高岳の縦走をしました。
12時間に及ぶ超難関ルートは本当にきつかった。
奥穂高岳から北穂高岳に行ったら、
丁度、山渓のカメラマンが雑誌のモデルさんの写真を撮っていました。
北穂高からは、有名なあの大キレットを通過して南岳山荘へ。
右がジャンダルム。
真ん中が奥穂高岳。
左の北穂高岳の左端に北穂高山荘が見えます。
そして槍ヶ岳へ2回目の登頂。
正面に見えるのが奥穂、北穂の山塊です。
それにしても槍の頂上はやっぱり狭いです。
上高地からのバスから見えたのは、
別れた妻と一緒に行った事のあるペンション、アルプホルン、
というオチまで付いての北アルプス、いいとこ取りの思い出の山行でした。
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