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砂の器と飢餓海峡

2024-11-04 15:50:23 | 映画




「砂の器」と「飢餓海峡」は、共に共通性のある映画として語られるみたいです。
私もこの2本の映画のDVDを持っていて、繰り返し何度も観ました。
そしてやはり「この映画には共通性がある」とも思っていました。

共に、ある殺人事件から始まった推理小説であり、
「砂の器」は松本清張原作で、1960年~1961年に書かれました。
「飢餓海峡」は水上勉原作で、1962年、週間朝日に連載されました。
映画になったのは、「飢餓海峡」が先で1965年。
「砂の器」はそれから9年後の1974年でした。

主演は「砂の器」は丹波哲郎であり、
「飢餓海峡」は三国連太郎です。

私はこの2本の映画を映画館ではなくDVDで観ました。
DVDで観て良かったと思うのですが、
それは、特に「砂の器」は、こみ上げ激しくむせび泣いてしまうからです。
映画館でこれを上映した時は、館内が泣きあげる人達の声に溢れたと思います。
それは、犯人とその父親、育ての親との(肉親愛)に感動し、
泣かずにはおれないからです。
肉親愛あればこそ、その大切な人を(絶対に)殺さざるを得なかった犯人の心。
肉親愛あればこそ、その子を心から愛さざるを得なかった被害者。
そんな矛盾を理解すればするほど観客は、その愛情に泣いたのです。

一方で「飢餓海峡」
「砂の器」の被害者が、1人であったのに比べ、
「飢餓海峡」では8人の人が殺された、大事件です。
「砂の器」が犯人と被害者との、深い愛情が発端だったのに比べ、
「飢餓海峡」はそれほど(愛情)はありません。
しかし、犯人を追い詰めたのは、たった一夜の一人の娼婦の愛情だったのです。
犯人は全く知らなかったのですが、その娼婦は、深い愛情を犯人に感じていたのです。

たかが、いち娼婦如きなんですが、彼女は実に心優しい女性でした。
己の輝ける未来の為に通過しただけの娼婦が、
まさか自分にそれほど純粋に愛を感じていた事実に、犯人は敗れてしまいました。
やはり、最後は人としての(心)には勝てなかった。
一人の純粋な心を持った娼婦の(真心)には勝てなかったのです。

この2本の映画を(どっとが良かったか?)と問われれば、
涙の量では圧倒的に「砂の器」でしょう。
あれを観て泣かない人なんて、ほとんど居なかったと思います。
映画館を涙、涙で曇らせた映画は、間違いなく「砂の器」です。

しかし私は「飢餓海峡」と採ります。
何故?
主演の三国連太郎の素晴らしさを採るからです。
彼はこの映画で、主演男優賞を獲ったとかありますが、
そんな賞などどうでもいいのですが、
三国連太郎、最高の演技、最高の適役は彼しかあり得ません。

小説に頻繁に出て来る言葉「犯人は6尺近い大男」



それは、映画「八甲田山」で山田少佐を演じた54歳の時の三国連太郎。
その時の彼の体重は100キロ近くあったと思われます。
それが最も「大男」のイメージに合致していました。



そして、小説では彼の昔を知る娼婦を、毒殺するのですが、
映画では大男の犯人は、女を力任せに絞め殺してしまいます。
そして、小説では被害者の女性を一緒になって運ぶ役目をした書生を、
映画では「見たなーッ」と言って力任せに首を絞めて殺してしまうのです。
それは、とてつもなく(恐い)瞬間でした。
この二つのシーンは映画が小説を超えるものでした。



そして、あのラストシーン。
それは凄かった。
いつまでもいつまでも余韻が残り、
犯人の最後の表情は、何を想っていたのかと考えてしまいます。



この2つの映画に共通して出てくるのは、加藤嘉です。
どちらも重要な役割を演じています。

しかし、三国連太郎に尽きます。
この映画を「名画」として語るには、彼なくしては語れません。
それが、私に「どっちがいいか?」と問われれば、
「飢餓海峡」だと言わせるのです。





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