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女優、筑波久子の事

2025-07-24 05:04:02 | 映画


先日、テレビで懐かしいパニック映画「ジョーズ」をやっていた。
途中から見始め、面白いので最後まで観てしまった。
そしたら妻がこんな事を言ったのです。
「ジョーズ」の監督は、往年の女優、筑波久子なのよね。
私はびっくりして「え、そうだったの?」と言いました。
しかし、それは間違いで、実際は映画「ピラニア」をプロデュースしたのでした。

そういった事で、筑波久子という女優の人生を調べてみました。
彼女は1939年(昭和14年)生まれで、現在86歳。



中々明るい顔の美人なんですね。
茨城県北茨城市で5人兄姉の末っ子として生まれました。
父親は地元で旅館と映画館を経営していました。
中学時代は生徒会長を務め、トップ成績でした。
慶應義塾高校へ進学し、演劇部に所属します。
その頃、両親に無断で日活のオーディションを受け、トップ合格。
猛反対の父親を根負けさせ日活に入社します。
同期には、二谷英明・小林旭がいました。

1957年(昭和32年)18歳。
「肉体の門」が大ヒット映画となります。
筑波の身体を張った演技が話題となり、
筑波主演の「肉体シリーズ」が日活のドル箱になります。







その頃、私はまだ子供だったのですが、
筑波久子という名前と、肉体〇〇といった言葉は覚えていて、
それ故に筑波久子という女優は、
グラマーな肉体派的な印象を植え付けられたのだと思います。
豊満な肉体と、あまり頭が良いとはいえない女優だと思っていたら、
実際は普通の、それでいて頭のいい女性だったのですね。

仕事には恵まれた彼女でしたが、
元々身体があまり丈夫ではなく、1本撮り終えると寝込んでいたそうです。
そして初恋の男性の急逝もあって酒浸りになってしまいます。
「肉体派女優」というレッテルを私生活まで貼られ、
心身疲労・緊急入院で生死の挾間でした。

そういった事で彼女は決意を固め、
1963年(昭和38年)人気絶頂の中、
24歳で突然芸能界を引退し、アメリカへ渡ります。
アメリカではコロンビア大学に入学。
27歳の時にアメリカ人男性と結婚し、カリフォルニアに居を構えます。
1967年(30歳)で、長男キースを出産。

しかし、映画への情熱は捨てられず、ベトナム戦争のさなか、
ドキュメンタリー映画「若いアメリカ人たち」を撮ります。
1973年(昭和48年)第2作目作品、
「Tender Loving Care」が大物プロデューサー、ロジャーコーマンに認められ、
「チャコ・ヴァン・リューウェン」名義で全米配給。
「彼女の作品を試写室で観てショックを受けた。
キャリアの浅い彼女が作ったのが信じられなかった、
そのくらいクオリティーの高い作品だった」

映画「ジョーズ」の3年後、1978年、
1億円の低予算で製作したパニック映画「ピラニア」が、
興収40億円の大ヒット。
彼女はハリウッドの大物プロデューサーとなったのです。



1981年、「ピラニア」のリメイク作品「殺人魚フライングキラー」の監督に、
当時無名で28歳の駆け出しだったジェームス・キャメロンを抜擢。
1986年、ソ連のチェルノボイリ原発事故が起こり、
感受性の強い一人息子のキースが自殺。
このショックから筑波は精神不安定になり自殺を試みた事もあったという。

2013年、息子の思いを支えに、東日本大震災からの復興、
自殺防止・高齢者、若者の支援を目的とする団体、
「ファミリーグループ」を日本で組織。政治活動も行っている。

子供の頃だけの印象で、
「豊満なグラマー」「肉体を売りにする女優」
程度にしか思っていなかった筑波久子という女優が、
日本とアメリカを股に掛けた波乱万丈の人生を送った、
素晴らしい女性だったと初めて知り、
妻の言った間違ったひと言「彼女はジョーズの映画監督だった」から、
本当の事を知ることになったのが嬉しいですね。



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