アフリカ喜望峰を回った本隊と、
スエズ運河を通った支隊とが合流できたまでは良かったのですが、
その間に中国では203高地が日本軍により占拠され、
203高地の眼下にある旅順のロシア軍も陥落してしまいました。
そうなると、日本軍と一戦を交えるのは、
バルト海からはるばるやって来るバルチック艦隊しかありません。
ロシアはその事態を憂慮して、
更にネボガトフ少将を司令官とする第三艦隊を、
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊と合流する様に指示します。
それは、一刻も早くに日本軍との決戦に挑みたいと考えていた、
ロジェストヴェンスキー中将にとっては耐え難い命令でした。
しかし、本国、ニコライ二世の命令に逆らう事はできません。
2月15日。
ネボガトフ少将指揮の太平洋第三艦隊が、
バルト海のリバウ港を出港しました。
4月14日。
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊はベトナムのカムラン湾に着きます。
その途中にはシンガポールがあり、
そこには沢山の日本人が駐留していました。
彼等は眼前を通過する、初めて見るロシアの大艦隊の姿に茫然として立ちすくみ、
こんな大艦隊に日本が勝てる筈がないと色を失ったそうです。
港から悄然として帰って行く日本人たちの姿を、
シンガポールの人達は哀れんだ目で見送ったそうです。
最初、ロジェストヴェンスキー中将は第三艦隊がこちらに着くには、
5か月はかかると踏んでいましたが、
意外に早く、
5月9日に第二、第三艦隊は合流を果たします。
バルト海を出港してから、7か月近くを、
アフリカの熱帯や、慣れない長期間の果てしない航海、
過酷な石炭補給の激務を過ごしてきた第二艦隊の兵士達は、
その頃、本国ロシアで芽吹き始めたロシア革命の噂などで、
疲れ切って士気は最悪でしたが、
それに比べ意気軒高な第三艦隊の出現に刺激され、
第二艦隊の兵士達の顔にも生気が蘇ってきました。
さて、ベトナム・カムラン湾から、
ロシアの軍港、ウラジオストックに行くには、3つのルートがあります。
➀ 日本と朝鮮の間の対馬を通る、対馬海峡ルート。
➁ 本州と北海道の間の津軽海峡ルート。
➂ 北海道と樺太の間の宗谷海峡ルート。
これの何処を通るのか、ロジェストヴェンスキー中将は、
ほんの数人の幕僚にしか教えませんでした。
各艦の艦長は誰もそれを知らなかったのです。
ロジェストヴェンスキー中将は、他人の言に耳をかすことはせず、
自分一人の判断で決定する事が司令長官としての自分の姿勢であり、
自分の頭脳と戦術思想に強い自信を持っていたのです。
勿論、日本軍でも、バルチック艦隊が何処を通るのかが、
最大の論点でした。
日本艦隊を3つに分ける、それは(敵に勝つ)為には無理です。
艦隊全部が一か所に集中して攻撃しなければ、
簡単に勝てる数の敵ではないのです。
しかし、東郷平八郎の気持ちは決まっていました。
周りの参謀などが心配になって東郷に尋ねても平気だったみたいです。
東郷平八郎は、あまりにも遠すぎ、あまりにも過酷な、
そして、あまりにも多くの艦船を率いてやってくる、
ロジェストヴェンスキー中将の気持ちを鑑みると、
おのずと答えは、最短ルートの対馬海峡以外はあり得ないと考えていたのです。
そして、その考えが間違っていなかった答えが、ありました。
バルチック艦隊の石炭補給船が上海に入港してきたのです。
それはロジェストヴェンスキー中将が最初に犯した失敗でした。
遠くの津軽海峡や、宗谷海峡を通る為には、
石炭補給は絶対に必要なのです。
その補給船を手放したという事の答えは、
最短ルートの対馬海峡を通るという事なのです。
ある日、沖縄・宮古島の漁師が船で釣りをしていました。
その近くをバルチック艦隊が通ったのです
バルチック艦隊からも、その釣舟を見ていたのですが、
日本人と思わず、中国人と見誤って何もしなかったそうです。
その漁師は「これがあのバルチック艦隊か」と、仰天し、
急いで宮古島に帰ってそれを報告しました。
宮古島は蜂の巣をつついた様な大騒ぎになりましたが、
それを日本軍に知らせる為には無線のある石垣島まで行かなければなりません。
5人の屈強な若者が選ばれ、石垣島まで約100キロ以上を、
15時間漕ぎまくり、港に着き、そこから更に30キロの山道を走って、
無線施設のある所まで行ったそうです。
かれらの勇気はその後、陽の目を見て、
宮古島に彼等を讃える(久松五勇士)の碑が建てられました。
しかし、彼等の勇気は無駄だったというと、気の毒なのですが、
対馬海峡周辺に張り巡らせていた多くの哨戒船の一隻、仮装巡洋艦・信濃丸が、
「敵艦見ゆ」の第一報を日本軍に知らせていたのです。
時に、5月27日、午前4時45分でした。
日本軍は対馬海峡周辺の無人島など200か所以上に監視員を置き、
海が荒れて食料補給が叶わずに、中には餓死した場所もあったそうです。
朝鮮半島南の鎮海湾に待機していた、
東郷平八郎率いる連合艦隊にいよいよ出撃の時がきたのです。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出撃、これを撃滅せんとす」
「本日天気晴朗なれども波高し」
有名な一文ですが、最後に「天気晴朗なれど・・」の一文を書き加えたのは、秋山真之。
「坂の上の雲」の主人公である真ん中白い服。
後に、この海戦の作戦立案者として名をあげた、参謀の秋山真之(さねゆき)中佐です。
この最後の一文を付け加えた事で、この言葉はとみに有名になりました。
スエズ運河を通った支隊とが合流できたまでは良かったのですが、
その間に中国では203高地が日本軍により占拠され、
203高地の眼下にある旅順のロシア軍も陥落してしまいました。
そうなると、日本軍と一戦を交えるのは、
バルト海からはるばるやって来るバルチック艦隊しかありません。
ロシアはその事態を憂慮して、
更にネボガトフ少将を司令官とする第三艦隊を、
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊と合流する様に指示します。
それは、一刻も早くに日本軍との決戦に挑みたいと考えていた、
ロジェストヴェンスキー中将にとっては耐え難い命令でした。
しかし、本国、ニコライ二世の命令に逆らう事はできません。
2月15日。
ネボガトフ少将指揮の太平洋第三艦隊が、
バルト海のリバウ港を出港しました。
4月14日。
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊はベトナムのカムラン湾に着きます。
その途中にはシンガポールがあり、
そこには沢山の日本人が駐留していました。
彼等は眼前を通過する、初めて見るロシアの大艦隊の姿に茫然として立ちすくみ、
こんな大艦隊に日本が勝てる筈がないと色を失ったそうです。
港から悄然として帰って行く日本人たちの姿を、
シンガポールの人達は哀れんだ目で見送ったそうです。
最初、ロジェストヴェンスキー中将は第三艦隊がこちらに着くには、
5か月はかかると踏んでいましたが、
意外に早く、
5月9日に第二、第三艦隊は合流を果たします。
バルト海を出港してから、7か月近くを、
アフリカの熱帯や、慣れない長期間の果てしない航海、
過酷な石炭補給の激務を過ごしてきた第二艦隊の兵士達は、
その頃、本国ロシアで芽吹き始めたロシア革命の噂などで、
疲れ切って士気は最悪でしたが、
それに比べ意気軒高な第三艦隊の出現に刺激され、
第二艦隊の兵士達の顔にも生気が蘇ってきました。
さて、ベトナム・カムラン湾から、
ロシアの軍港、ウラジオストックに行くには、3つのルートがあります。
➀ 日本と朝鮮の間の対馬を通る、対馬海峡ルート。
➁ 本州と北海道の間の津軽海峡ルート。
➂ 北海道と樺太の間の宗谷海峡ルート。
これの何処を通るのか、ロジェストヴェンスキー中将は、
ほんの数人の幕僚にしか教えませんでした。
各艦の艦長は誰もそれを知らなかったのです。
ロジェストヴェンスキー中将は、他人の言に耳をかすことはせず、
自分一人の判断で決定する事が司令長官としての自分の姿勢であり、
自分の頭脳と戦術思想に強い自信を持っていたのです。
勿論、日本軍でも、バルチック艦隊が何処を通るのかが、
最大の論点でした。
日本艦隊を3つに分ける、それは(敵に勝つ)為には無理です。
艦隊全部が一か所に集中して攻撃しなければ、
簡単に勝てる数の敵ではないのです。
しかし、東郷平八郎の気持ちは決まっていました。
周りの参謀などが心配になって東郷に尋ねても平気だったみたいです。
東郷平八郎は、あまりにも遠すぎ、あまりにも過酷な、
そして、あまりにも多くの艦船を率いてやってくる、
ロジェストヴェンスキー中将の気持ちを鑑みると、
おのずと答えは、最短ルートの対馬海峡以外はあり得ないと考えていたのです。
そして、その考えが間違っていなかった答えが、ありました。
バルチック艦隊の石炭補給船が上海に入港してきたのです。
それはロジェストヴェンスキー中将が最初に犯した失敗でした。
遠くの津軽海峡や、宗谷海峡を通る為には、
石炭補給は絶対に必要なのです。
その補給船を手放したという事の答えは、
最短ルートの対馬海峡を通るという事なのです。
ある日、沖縄・宮古島の漁師が船で釣りをしていました。
その近くをバルチック艦隊が通ったのです
バルチック艦隊からも、その釣舟を見ていたのですが、
日本人と思わず、中国人と見誤って何もしなかったそうです。
その漁師は「これがあのバルチック艦隊か」と、仰天し、
急いで宮古島に帰ってそれを報告しました。
宮古島は蜂の巣をつついた様な大騒ぎになりましたが、
それを日本軍に知らせる為には無線のある石垣島まで行かなければなりません。
5人の屈強な若者が選ばれ、石垣島まで約100キロ以上を、
15時間漕ぎまくり、港に着き、そこから更に30キロの山道を走って、
無線施設のある所まで行ったそうです。
かれらの勇気はその後、陽の目を見て、
宮古島に彼等を讃える(久松五勇士)の碑が建てられました。
しかし、彼等の勇気は無駄だったというと、気の毒なのですが、
対馬海峡周辺に張り巡らせていた多くの哨戒船の一隻、仮装巡洋艦・信濃丸が、
「敵艦見ゆ」の第一報を日本軍に知らせていたのです。
時に、5月27日、午前4時45分でした。
日本軍は対馬海峡周辺の無人島など200か所以上に監視員を置き、
海が荒れて食料補給が叶わずに、中には餓死した場所もあったそうです。
朝鮮半島南の鎮海湾に待機していた、
東郷平八郎率いる連合艦隊にいよいよ出撃の時がきたのです。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出撃、これを撃滅せんとす」
「本日天気晴朗なれども波高し」
有名な一文ですが、最後に「天気晴朗なれど・・」の一文を書き加えたのは、秋山真之。
「坂の上の雲」の主人公である真ん中白い服。
後に、この海戦の作戦立案者として名をあげた、参謀の秋山真之(さねゆき)中佐です。
この最後の一文を付け加えた事で、この言葉はとみに有名になりました。