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トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➁

2024-07-30 15:16:09 | 事件・事故
1890年(明治23年)9月16日、夜10時半頃、
激しい風雨の中、樫野崎灯台の官舎の扉を激しく叩く、10名ほどの一団があった。
彼等は全身ずぶ濡れで、その多くは衣類もはぎ取られ、息も絶え絶えで疲労困憊の様子だった。
彼等は命からがら灯台の真下の岩場に這い上がり、
救助を求めて来たトルコ海軍の乗組員たちであった。



官舎の玄関の扉を開けた管理人は、突然目の前に現れた大柄なずぶ濡れで衣類もほとんど、
はぎ取られた人々を見てさすがに、すぐに事情を察し官舎の中に彼等を入れたのです。
家人総出で彼等の傷の手当てをする一方、言葉も分からない外国人の身体を拭き、
震える体のマッサージを始めたのです。
しかし、官舎以外に人家の無い所であるだけに、
夜明けまでに更に50名以上の同じ様な外国人が現われ、その数は69名に達したのです。
しかし、管理人達は彼等の話す言葉が全く分かりません。
どこかの国の船が下の危険な岩場に座礁し救助を求めに来たのは分かりますが、
どうにも事態の掌握ができないままに一夜が明けました。



翌日は前夜の嵐が嘘のように穏やかな快晴の朝になりました。
管理人は早速、大島村の村長に事態を連絡したのです。
村長の連絡を受けた数十名の村人たちが官舎に駆け付けました。
そして言葉は分からないものの、外国人たちの傷の手当と共に食事の準備を始めたのです。
この樫野の岩場は、昔から航海の難所として知られており、
村人達はそれまでも遭難した船乗りたちを助けてきた経験があったのです。

言葉の分らない外国人たちに何を食べさせていいのかも分らず、
家々にあった野菜や、飼っていた数羽の鶏まで持ち込んで料理を始め、
これを遭難した外国人に与えたのですが、
彼等はむさぼる様にその全てを平らげたのでした。
官舎では大勢の人々の収容は不可能な為、村の寺や神社に分散して彼等を収容しました。
困ったのは衣類を殆どはぎ取られ裸同然の彼等の衣類の準備でした。
裕福ではないこの村に家々にあるのは着古した浴衣や着物でした。
集められるだけ集めた、そういった衣類を大柄な彼等に着方を教えながら着せ、
とに角、彼等を一旦落ち着かせる事には成功したのでした。



そして言葉の全く分からないこの事態を、解決する人が偶然現われたのです。
それは、この嵐を避ける為に大島に隣接する串本の港に一隻の貨物船が避難しており、
その船長がカタコトではあるが英語を話せたのです。
幸運にも遭難者の中に多少の英語を話す士官がいたのです。
その結果、彼等はトルコの軍艦、エルトゥールル号の乗組員で、
横浜から帰路の途中で船が沈没し、多くの乗組員が行方不明になっている事が分かったのでした。
そして、その日から海岸に多くの外国人の水死体が漂着したのです。
その数は219体に達し、司令官のオスマン提督を含む321名が行方不明となったのです。

村人たちは、はるか異国の地で命を失った犠牲者の遺体を一か所に集め、丁寧に埋葬。
この事態は大島村から直ちに東京の外務省に連絡されました。
連絡を受けた外務省は遭難者の救助の為に、日本赤十字に医師と看護婦を現地に派遣します。
しかし、遭難者たちは神戸に運ばれるとの連絡を受け、医師団を急遽、神戸に向かわせたのです。

当時トルコとの国交のない日本政府は、とりあえず神戸のドイツ領事館に事態説明し、
兵庫県知事の要請を受ける形で、神戸港に駐留中のドイツ軍艦ヴォルフ号を、
串本に派遣する事になります。
そして遭難者全員を神戸に移送する事になりました。

日本政府がここまで遭難者の救助と保護に力を推進させたのは、明治天皇でした。
明治天皇はエルトゥールル号の遭難を知ると、事態を嘆き、
直ちに名代を神戸に派遣し、日本赤十字に事後の遺漏のない処置を託したのです。



日本政府はエルトゥールル号の生存者をトルコへ送還する事を決めます。
その送還の為には明治天皇からの答礼も含め、日本海軍の軍艦を派遣する事を決めました。
派遣艦として巡洋艦「比叡」と「金剛」の2隻が選ばれ、
この2隻に生存者を分乗させ、明治天皇の親書も携え、
これをもってトルコの特派使節に対する謝意を表わそうとし、
二隻の派遣艦の艦長を派遣代表としたのです。

1890年10月7日、二隻の巡洋艦は横須賀を出港し、
神戸から生存者69名が乗り込みました。
69名の生存者はそれぞれ階級に応じた日本海軍の制服が支給され、それを着ていましたが、
頭にはトルコ海軍の将兵を示す赤いトルコ帽が用意されていました。
それは全て日本海軍からの好意からの準備でした。

しかし日本の派遣隊の側では問題が発生していました。
両国の将兵の言葉が全く通じなく、意思の疎通を欠く心配が懸念されていたのです。
しかし都合よく神戸で移留外人相手に酒類の販売をしていたルーマニア人が居たのです。
彼はトルコ語、英語、そしてカタコトの日本語が話せたのです。
その彼を臨時の通訳として派遣隊に同行を海軍が依頼。
それによってまどろっこしいのですが、会話が可能となったのです。

生存者たちは25日という異例の速さでトルコへの帰還が果たせたのです。
これは当時の諸事情を考えると、異例と言える速さでした。
途中、国交問題とかの事情により、すんなりとはトルコへの入国が出来なかったのですが、
トルコ側のハミド二世皇帝の決断により可能となったのでした。
1891年1月2日、二隻の巡洋艦はイスタンブールに入港し、
様々なトルコ側の歓迎行事を受け、滞在は1ヵ月に及びました。

エルトゥールル号の遭難事件に対する日本人の心暖まる対応が知られると、
トルコ国民はこぞって日本に対し感謝と感動の言葉を送ったのです。
そして2年後にトルコ政府は皇帝侍従武官を答礼の為に、日本に派遣してきたのです。

このエルトゥールル号事件は、その後日本とトルコとの密接な関係の礎となり、
ロシアにより苦杯を舐め続けていたトルコは、
日露戦争の日本の勝利に湧きかえり、その後のトルコの無類の日本贔屓の基礎が出来上がったのでした。



樫野の丘には遭難事件の翌年1891年に、地元有志によって集められた義援金によって、
石造りの「エルトゥールル号忠魂碑」が建立された。
そして1929年に昭和天皇がこの丘を訪ねたことを機に、
新生トルコの初代大統領ケマル・アタチュルクの発案により、
トルコ政府の基金で1937年に高さ12メートルの立派な慰霊碑が建立されました。





現在では慰霊碑に隣接して串本町が、
日本とトルコの友好の証としてトルコ記念館を建設し、
館内にはエルトゥールル号の様々な遺品が展示されています。

エルトウールル号遭難から134年の月日が流れていますが、
現在でも地元串本町では定期的に遭難追悼式を開催しており、
その際にはトルコ大使が隣席するのが習慣になっています。
2008年には来日中のトルコ大統領アブドル・ギュル氏が、
遭難者追悼式に列席したのでした。





トルコ人の日本贔屓は現在も国民の中に生き続けており、
我が子の名前に日本の名前を命名する人もいるのです。





トルコ人が、なぜ日本が大好きか?
それは130年以上も前に起きた、船の遭難事件の際に、
貧乏な村人たちからの暖かい対応に彼等が心から感動し感謝した為だったのです。
言葉の全く分からない、傷つき疲れ切って、お腹を空かせた自分達に、
村人たちは、同じ人間だから、困っているのだからと、
献身的に助けてくれた行為は、どれだけ彼等の心を打ったのでしょう。
それが脈々とトルコ国民の心に、日本贔屓となって伝わっているのです。


なお、このドラマには続編があります。
それは「トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➂」に書きます。


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