河童の歌声

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鶴見事故・血塗られた土曜日

2022-06-09 16:11:49 | 事件・事故
【ゆっくり解説】串刺し、大根おろし状態になった列車…『鶴見事故』戦後最大の脱線事故


先日は、星と涼風の歌声に行ったのですが、
まだ時間が早かったので、鶴見駅から下の線路の風景をしばし眺めていました。
この近くでは昔、鶴見事故という大惨事があった事は勿論知っています。
線路の向こう側には総持寺の屋根が見えています。
そこが事故直後の遺体安置所だった事も知っています。
けれど事故の正確な場所は、
妻はもっと東京寄りだと言うし、私はもっと横浜側だと思っていました。

しかし、実際の現場は、
JR鶴見駅から横浜方向1,5キロに京急、生麦駅があり、
そこから更に2~300メートル横浜寄りの、
生麦駅と首都高速神奈川7号線、横浜北線がレールの上を跨いでいますが、
その中間地点かと思われます。



さて、1963年(昭和38年)11月9日(土)午後9時40分。
下り国鉄貨物列車(45両編成)は4分遅れで生麦駅近くを走行していました。
その最後尾3両が突然脱線をしてしまいました。
これらの貨物車両はいわゆる2軸車と言われる車両でした。
3両の貨車は引きずられた後、架線柱に衝突して編成から外れてしまい、
隣の東海道線(当時、東海道線も横須賀線も同じレールを走っていた)を塞いでしまいました。





そこへ横須賀線上り東京行き電車と、
下り電車(共に12両編成)がほぼ同時に進入して来ました。
上り電車は90キロという高速のまま進入し、停車していた貨車と衝突。
先頭車両は下り方向へ弾き飛ばされ、
架線の異常を発見して減速していた下り4両目の側面に衝突して、
4両目車両を串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら、
5両目の車体の半分以上を削り取って停止したのです。









その結果、下り電車の4,5両目は車端部を残して、全く原型を留めないほどに粉砕され、
5両目に乗り上げた形で停止した上り先頭車両も大破。
死者161名、負傷者120名を出す、大惨事になったのです。

この前年(1962年)の三河島事故と同様に視界の悪い夜間であった事が、
被害を大きくしたのでした。
三河島事故の死者は鶴見事故より一人少ない160名、負傷者は296名でした。
貨物列車の運転士は脱線直後に発煙筒を焚いたのですが、
何故か短時間で消えてしまい、上り電車の運転士(死亡)が、
事故直前まで脱線に気づかずに高速のままで貨車に衝突、
勢いあまって横の電車を大きく破壊してしまったのです。

最初の原因となった2軸貨物車は(競合脱線)という原因だったのですが、
それは様々な要素が重なり合って車両が飛び跳ねる状態になるのです。
国鉄では様々な大規模実験や研究を重ね、
その原因の一応の結論を出しました。
現在は2軸車両が激減した事などもあって、
2軸貨車の競合脱線は起こり得なくなっています。

この日は、
福岡県、大牟田市の三井三池炭鉱で、粉塵爆発事故の為に、
死者458名という死者を出した大事故が発生した為に、
「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれたのです。


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リリアン.ハーヴェイ

2022-06-09 07:08:11 | 映画
会議は踊る Das Gibt's Nur Einmal



リリアン・ハーヴェイ(当時25歳)はこの1作で大スターになりました。
この映画ほど(一世を風靡)した映画は過去には無いし、
これからも無い(いわゆる空前絶後)と思われます。
と言うのは、映画という娯楽の価値が昔ほどは無くなっていますから。

この映画が日本で封切られたのは1934年(昭和9年)ですが、
私の母は当時18歳の乙女盛りでした。
その母も、この映画の事を夢の様に熱く語り、
たどたどしいドイツ語で唄ったりしていました。
大正生まれの人達は、この画期的な映画を熱く語り、
「あれは正に一世を風靡した映画だった」と言いますね。
そんな人たちもほぼ亡くなってしまったのですが、
彼等が語った熱い夢は今でも残像として残っている気がします。

そんな大正男子たちの胸をときめかせたのが、リリアン・ハーヴェイでした。
1906年~1968年(62歳)

彼女はドイツ人の父親と、イギリス人の母親との間に、イギリスで生まれました。
1923年、学校を卒業した後は、ダンススクールに通ったり、
ベルリン国立歌劇場のボイススクールに通ったりしました。



1924年、サイレント映画の少女役でデビューします。
翌、1925年には主役の座を射止めました。
1930年代初頭のトーキー映画創成期に女優としての成功を収めました。
そして1931年にあの「会議は踊る」が大ヒット。
彼女は女優としての地位を確立しました。

しかし、彼女はユダヤ人の友人と接触を持っていた為に、
ゲシュタポ(ナチス下のドイツ警察の中の秘密警察部門)から監視されます。
1930年代後半も女優としての成功を収めていましたが、
ゲシュタポからの圧力もあってフランスに移住しました。
ナチスはそんな彼女のドイツ市民権を剥奪しました。

戦後、ドイツに戻り1953年に結婚しましたが、1957年に離婚します。
1968年に62歳でフランスで亡くなりました。



昭和初期に「会議は踊る」で彼女を見染め、
胸を熱くときめかせた若い男性は日本は勿論、
世界中に沢山いたのでしょうね。
そういった人達は後世までずっとずっと熱いままで、
あの映画と、主役だったリリアン・ハーヴェイを語り続けましたね。

一世を風靡した映画と、そこに在った女優の物語。

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