大きな被害を受けた陸前高田市[震災翌日]
岩手県の陸前高田に行って来ました。

東日本大震災・一年後の2012年に行こうとしたんですが、
当時は電車が気仙沼までしか無く、あきらめて気仙沼を、
独りで歩き回ったのです。
海から600メートルの内陸にまで乗り上げ有名になった漁船、
第18共徳丸が、鹿折唐桑駅前に鎮座していたのですが、
そこをバスで通りかかると、漁船は既に撤去されていて、
盛り土によりかさ上げされている町は、以前の風景は
もう何処にも有りませんでした。

気仙沼までは従来通りのJRが来ていますが、
そこから先はBRT方式のバスに乗り換えて陸前高田へ向かいます。
陸前高田では、キャピタルホテル1000というホテルに泊まりました。
被災前は海岸にあったのですが、
津波被害で取り壊され、場所を変えての高台に新築し直されての営業です。
名前の1000と言うのは、
歌手の千昌夫が最初、ホテル建設の資金を援助した事からだそうです。


かつての海岸には7万本の松原がありました。
しかし、津波で全滅し、たった一本だけが生き残り、
「奇跡の一本松」となって残っていました。
でも実態は、ほぼ枯れ木状態で、その姿を残す為に大金が投じられています。

今回は陸前高田の「語り部」の方にお願いし、
タクシーと共に3時間借り切っての被災地巡りとなりました。
3時間は時間的に比較的余裕があるので、被災地以外の名所なども見せて頂きました。

7万本の松の木は、根本から1~2メートルくらいで、
すっぱりと切断されていました。

かつて在った「道の駅」前の慰霊碑で、
観光客が持ってきた花束を整理する、ガイドの新沼さん。

道の駅では、屋上の看板の上(15,1メートル)まで津波が来ました。

3階建ての、この小学校は完全に水没し、
屋上にある水位の看板には、14,1メートルの記載があります。
しかし、この学校の生徒は避難し、死者は出なかったそうです。
この小学校は保存される事になったそうです。

この建物も保存が決まった雇用促進住宅で、
5階建ての建物の4階までは完全に水没し、5階の真ん中まで津波が来ました。

陸前高田の市街が一望できる箱根山(450メートル)の展望台にて。
広田湾と、右奥が陸前高田です。

同じく、箱根山から。
この半島状態の場所に、あの俳優の村上弘明の家がありました。
こちら側と向こう側は津波で途切られてしまい一時は(島)になったそうです。

語り部さんの案内で、お隣の大船渡にある観光名所、
穴通磯(あなとおしいそ)を見に行きました。
向こうに見えるのは大船渡の市街地ですが、
防波堤の高さが景観を損ねているのが感じられますね。

陸前高田から仙台に戻る途中の気仙沼駅にある喫茶店です。
昼食を食べに途中下車して行ったのですが、そんな店は無く、
たった一軒だけあったのがこの喫茶店(シー・キャンドル・コーヒー)
しかし、マスターが神奈川県の辻堂に居た事もあるという後藤さんという方で、
ライブをする事もあるというオシャレな店でした。

ホテルからは真正面に楽天の野球場が見え、
この日はソフトバンクとの試合が行われていました。

その日の夜は「歌声喫茶・仙台バラライカ」で歌声です。
昔、仙台駅前にあった「歌声喫茶・若人」の同窓会という月一の日でした。

いつも泊まる仙台サンプラザホテルからの早朝風景です。

仙台駅のそばにあるAERビルの31階にある展望台から見下ろす仙台市街です。
高さ145,5メートルだそうです。

仙台に行くと必ず行く店で、いつもの三色丼を注文し、

今回は「ひれ酒」を飲みました。

昼食後は「バラライカ」の昼歌に参加。
3時半まで居ましたが、
私達は3週間前にもバラライカに行ったばかりで、
南部さんからは「いつ仙台に移住するの?」
「来週もお待ちしてますね」なんて冷やかされてしまいました。
バラライカでは、私も妻も苗字などで呼ばれた事は皆無で、
いつも「河童さん」「エリカさん」なんですね。(笑)
これで、津波の被災地は、
石巻2回。気仙沼。南三陸町。陸前高田の5回となりましたが、
最も印象に残るのは、
被災3ヶ月後に行った石巻で、それは凄い臭いでした。
今回行った陸前高田では、もう5年半も経っているので、
以前の市街地や面影は、完全に無くなっているみたいですし、
地元の人が見たら、浦島太郎状態なんだと思います。
やはり、少しでも早くに被災地は皆さんに見て欲しかったですね。
被災地が完全な姿で復活する日は、まだまだ先の事でしょうが、
私達は日本人として、事実を見る義務があると私は思います。
そして、旅行に行くなら東北に行き、
少しでもお金を使って、東北を支援して欲しいと願っています。
岩手県の陸前高田に行って来ました。

東日本大震災・一年後の2012年に行こうとしたんですが、
当時は電車が気仙沼までしか無く、あきらめて気仙沼を、
独りで歩き回ったのです。
海から600メートルの内陸にまで乗り上げ有名になった漁船、
第18共徳丸が、鹿折唐桑駅前に鎮座していたのですが、
そこをバスで通りかかると、漁船は既に撤去されていて、
盛り土によりかさ上げされている町は、以前の風景は
もう何処にも有りませんでした。

気仙沼までは従来通りのJRが来ていますが、
そこから先はBRT方式のバスに乗り換えて陸前高田へ向かいます。
陸前高田では、キャピタルホテル1000というホテルに泊まりました。
被災前は海岸にあったのですが、
津波被害で取り壊され、場所を変えての高台に新築し直されての営業です。
名前の1000と言うのは、
歌手の千昌夫が最初、ホテル建設の資金を援助した事からだそうです。


かつての海岸には7万本の松原がありました。
しかし、津波で全滅し、たった一本だけが生き残り、
「奇跡の一本松」となって残っていました。
でも実態は、ほぼ枯れ木状態で、その姿を残す為に大金が投じられています。

今回は陸前高田の「語り部」の方にお願いし、
タクシーと共に3時間借り切っての被災地巡りとなりました。
3時間は時間的に比較的余裕があるので、被災地以外の名所なども見せて頂きました。

7万本の松の木は、根本から1~2メートルくらいで、
すっぱりと切断されていました。

かつて在った「道の駅」前の慰霊碑で、
観光客が持ってきた花束を整理する、ガイドの新沼さん。

道の駅では、屋上の看板の上(15,1メートル)まで津波が来ました。

3階建ての、この小学校は完全に水没し、
屋上にある水位の看板には、14,1メートルの記載があります。
しかし、この学校の生徒は避難し、死者は出なかったそうです。
この小学校は保存される事になったそうです。

この建物も保存が決まった雇用促進住宅で、
5階建ての建物の4階までは完全に水没し、5階の真ん中まで津波が来ました。

陸前高田の市街が一望できる箱根山(450メートル)の展望台にて。
広田湾と、右奥が陸前高田です。

同じく、箱根山から。
この半島状態の場所に、あの俳優の村上弘明の家がありました。
こちら側と向こう側は津波で途切られてしまい一時は(島)になったそうです。

語り部さんの案内で、お隣の大船渡にある観光名所、
穴通磯(あなとおしいそ)を見に行きました。
向こうに見えるのは大船渡の市街地ですが、
防波堤の高さが景観を損ねているのが感じられますね。

陸前高田から仙台に戻る途中の気仙沼駅にある喫茶店です。
昼食を食べに途中下車して行ったのですが、そんな店は無く、
たった一軒だけあったのがこの喫茶店(シー・キャンドル・コーヒー)
しかし、マスターが神奈川県の辻堂に居た事もあるという後藤さんという方で、
ライブをする事もあるというオシャレな店でした。

ホテルからは真正面に楽天の野球場が見え、
この日はソフトバンクとの試合が行われていました。

その日の夜は「歌声喫茶・仙台バラライカ」で歌声です。
昔、仙台駅前にあった「歌声喫茶・若人」の同窓会という月一の日でした。

いつも泊まる仙台サンプラザホテルからの早朝風景です。

仙台駅のそばにあるAERビルの31階にある展望台から見下ろす仙台市街です。
高さ145,5メートルだそうです。

仙台に行くと必ず行く店で、いつもの三色丼を注文し、

今回は「ひれ酒」を飲みました。

昼食後は「バラライカ」の昼歌に参加。
3時半まで居ましたが、
私達は3週間前にもバラライカに行ったばかりで、
南部さんからは「いつ仙台に移住するの?」
「来週もお待ちしてますね」なんて冷やかされてしまいました。
バラライカでは、私も妻も苗字などで呼ばれた事は皆無で、
いつも「河童さん」「エリカさん」なんですね。(笑)
これで、津波の被災地は、
石巻2回。気仙沼。南三陸町。陸前高田の5回となりましたが、
最も印象に残るのは、
被災3ヶ月後に行った石巻で、それは凄い臭いでした。
今回行った陸前高田では、もう5年半も経っているので、
以前の市街地や面影は、完全に無くなっているみたいですし、
地元の人が見たら、浦島太郎状態なんだと思います。
やはり、少しでも早くに被災地は皆さんに見て欲しかったですね。
被災地が完全な姿で復活する日は、まだまだ先の事でしょうが、
私達は日本人として、事実を見る義務があると私は思います。
そして、旅行に行くなら東北に行き、
少しでもお金を使って、東北を支援して欲しいと願っています。