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河童の歌声

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ソードフィッシュ

2016-11-12 08:06:37 | 軍事


ソードフィッシュは、イギリスの軍用機です。
この古式蒼然たる複葉機(翼が2枚ある飛行機)が、
第二次世界大戦に参戦していたという事実には、チョッとびっくりしますが、
とんでもない・・それどころか大活躍をしたというのですから、
開いた口がふさがらないと言った方が正解でしょう。

ソードフィッシュは1934年に初飛行をし、
1936年から、その運用が開始されました。

最高時速は222キロ。
巡行速度は167~207キロ。
失速速度は107キロ。
つまり物凄く遅い飛行機なのです。

しかし、その反面の利点も大きかったのです。
ソードフィッシュを撃墜しようと戦闘機が追撃すると、
その、あまりにも遅い速度に同調した戦闘機は、
うっかりすると遅すぎる速度によって失速し墜落してしまうという、
事態が現実に起こったのです。
これは笑うに笑えない事実でした。

また金属パイプに布張りの機体は、
機銃弾を受けても、プスプスと布を通り抜け、
金属パイプはそのままで容易に墜落しないという、
まるで漫画みたいな光景があったのです。



1940年11月。
イギリス軍のソードフィッシュ22機が、
イタリアの軍港・タラント港を空襲します。

タラント軍港はイタリア半島の、長靴の踵にあたる場所にあり、
イタリア軍はこの軍港を、
「地中海のど真ん中に在る航空母艦のような存在」と言って豪語していました。
タラント軍港は絶対的な不沈空母といった所でしょうか。

その軍港をイギリス軍は、たった22機の古色蒼然たる航空機で空襲したのです。
その利点は、時代遅れの低速。
その低速ゆえに急降下して、魚雷を放ち、舞い上がるという芸当が可能だったのです。
これが速度の速さを誇る雷撃機だったら、
対岸の山に激突してしまい空襲は不可能だったのです。

この空襲によるイタリア軍の被害は余りにも甚大でした。
戦艦リットリオ(42000トン)は、修理に5ヶ月を要し、
戦艦カイオデュリオ(23000トン)は修理に6ヶ月。
戦艦コンテ・ディ・カブール(23000トン)に至っては、
遂に終戦まで修理は完了しないという事態だったのです。

タラント軍港は地中海の不沈空母と豪語したイタリアは、
これ以後、タラント軍港を放棄してしまいました。
このタラント軍港壊滅は、
日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃の大いなる参考に、手本になったのです。

ソードフィッシュによる活躍は、それだけではありません。
1941年5月のドイツ戦艦・ビスマルク追撃戦。
そこではソードフィッシュは、
たった一度しか無かった、わずかなチャンスに、
ビスマルクの舵を破壊し、それ以後のビスマルクは舵が動かずに、
その命運を絶たれるという悲劇となったのです。
最後の・・もうこれがダメならあきらめざるを得ないという時に、
神はイギリスに味方したとしか言いようがありませんでした。
それだけに、欧州最強を誇ったドイツの戦艦・ビスマルクは、
幸運に見放されてしまったのですね。

また、1942年2月の、チャンネルダッシュ。
ドイツの戦艦・シャルンホルスト・グナイゼナウ・重巡洋艦プリンツオイゲンの、
大型艦3隻が、真昼間のドーバー海峡突破を果たした時は、
6機のソードフィッシュが雷撃を試みましたが、
ドイツ軍から、そのあまりの低速に、
「可哀想にな~、あれじゃ自殺と同じじゃないか」と同情される始末で、
6機は全機が撃墜されてしまい、
指揮官であるエズモンド大尉は、第二次世界大戦でイギリス軍最高の栄誉である、
ビクトリア勲章を授与されました。
戦果はまるでありませんでしたが、彼等の勇気をイギリス軍は讃えたのです。
それはイギリス軍は彼等6機が戻って来るなど、あり得ない事と知っていたからです。

それにしても、
こんな古式蒼然たる低速機がヨーロッパ戦線で大活躍しようなどとは、
恐れ入った事ですね。
脱帽。





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ルガーP08

2016-06-24 06:31:23 | 軍事
【タナカワークス】ルガーP08 HW 簡単レビュー


ドイツの拳銃である、ルガーP08は、その原型は
ヒューゴ・ボーチャードが1888年に設計した拳銃でしたが、
ゲオルグ・ルガーが改良し、
1908年にドイツ軍に制式採用されました。
その構造的に独特の動きから(尺取虫)とも呼ばれます。

1938年に、
有名な拳銃・ワルサーP38がドイツ軍に制式採用されるまでの30年間、
ドイツの誇る拳銃として名を馳せました。

アメリカ兵の間では、日本刀と並ぶ、
最も人気の高い戦利品となりました。
それは、他の拳銃とまるで違ったスタイルと、
尺取虫と呼ばれた独特の動きからであったのだと思われます。

私もずっと昔、
この拳銃を持っていた(勿論モデルガン)のですが、
いつの間にか無くなってしまいました。
多分、何か片づけをした時に、もう壊れていたので捨てたんだと思います。
モデルガンとはいえ、本物と同じ様に鉄独特の鈍い光沢があり、
そして、本物と同じ重量だった事もあって、その重さにもしびれていました。

アメリカのコルトやスミス&ウェッソンなどには無い、
如何にもドイツらしい角ばったスタイルは、本当に惚れましたね。

日本にある拳銃メーカーに(ナンブ)があります。
南部14年式拳銃は日本陸軍に制式採用された拳銃で、



そのスタイルはルガーとよく似ていましたが、
方式はまるで違っていた拳銃でした。



その後、ニューナンブM60が日本の警官の拳銃となりましたが、
現在もそれを使っているのかは知りません。


もう一度、あのルガーP08を欲しいと思いますし、
また日本刀も欲しいのです。
日本刀って、超有名な刀以外は、真新しい刀の方が高価みたいですね。

それにしても、ルガーが欲しかったり、日本刀が欲しかったり、
私はかつてのアメリカ兵みたいな心境ですね。

でもね、ルガーを握った時の感激はかなりなものだし、
日本刀だって、それが模造刀であっても、
男としての本能がふつふつと湧き上がってくるんですよ~。
そんな感覚ってとっても、いいんですね~。
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空の要塞・B-29

2015-09-18 07:36:50 | 軍事
もう30年以上も前の話でしたが、私の母がこんな話をしてました。
「何処だかの女子高校生が、日本が過去に戦争をした事を知らなかったそうよ」

「へ~、日本とアメリカが戦争したの。それでどっちが勝ったの?」

そんな事が新聞に載ってたそうよ・・・と。

それを聞いた私はかなり驚きました。
日本が戦争をした事を知らないッ!
これは殆ど‘絶句‘ものでした。

また、これは私自身の経験ですが、
ある3人の若者(20歳くらい)が、「忠臣蔵」を知らなかったのです。
この時もかなり驚きました。
あれほど年末になるとテレビ等で放映されているのに、こいつらはアホかと思いました。

私の友人(昭和25年生まれ)が、ある時、私との会話でこんな事を言いました。
「B-29?俺それ知らないよ」
私は思わず「エッ?」と思いました。

彼は九州の福岡出身、それで戦後の昭和25年生まれ。
東京出身ならいざ知らず、九州だと、もうB-29は知らないのかな~?っと思いました。


あのね、B-29というのはアメリカの爆撃機で、広島・長崎に原爆を落とした飛行機なんだよね。





それまでの爆撃機(爆弾を投下する為の飛行機)と決定的に違うのは、
与圧室を持っているという点。

つまり高高度(9000メートル以上)の高さを飛ぶと、
酸素は薄いし、寒いしで、酸素マスクや防寒着などを付けないと無理だったのですが、
B-29の搭乗員は半そでで乗ってたくらいなんです。
つまり、現在私たちの乗っている旅客機と同じという訳です。

しかし、その怪物B-29を向かえ撃つ日本の戦闘機は、それほどの高高度は至難でした。
絶対に無理ではありませんでしたが、その高度に達するまでは凄く時間を要し、
操縦士は寒いし、酸素は薄いし、
戦闘機のエンジンは能力的に限界で、ほんのチョッとだけしかの戦闘時間しか残されていなかったのです。

それを迎え撃つ空の要塞B-29はと言えば、
優れた火器管制装置が搭載されていて、
非常に高い練度を必要とされた機銃射撃が、誰にでも行える様になっていて、
命中率が驚異的に向上していたのです。
おまけに、その機銃が機体にハリネズミの様に(13門)多数装備されていたので、
日本の戦闘機はうかつに接近する事さえままならなかったのです。
最後はB-29に対し、体当たりをする戦闘機すらあったのです。
それほど撃墜するのが難しかったのですね。

B-29の総生産機数は3970機で、
日本への参戦は昭和19年11月からでした。

10人の乗組員によって、9トンの爆弾を搭載する、この空の要塞は、
日本中を焦土と化し、行きつく先には、広島・長崎への原爆投下があったのです。



エノラゲイ。
B-29には一機一機、個別に名前が付けられていたのです。
それが広島で10万人を殺した飛行機・B-29でした。


B-29というのは、そういう飛行機・空の要塞の爆撃機だったのです。
知らなかった人も、少しは覚えておいてね。





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インパール作戦

2015-09-15 08:53:05 | 軍事
インパール作戦というのは、
1944(昭和19年)3月~7月に日本軍が行った作戦で、
その杜撰(ずさん)さにより歴史的大敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞となりました。

昭和16年12月に始まった大東亜戦争(日本軍がアメリカ・イギリス・中国などを相手にした戦争)は、
勝ち戦だったのは、ほんの半年で、
昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北を転機として、負け戦の様相を呈してきます。
連戦連敗の日本軍は、昭和19年ともなると気息奄々の状態でした。
何処かで華々しい勝利をものにしたかった日本軍(ある特定の将軍)が、
目を付けたのが、インド・ビルマ国境の小さな町インパールでした。
イギリス軍が守るその小さな町など、戦略的価値はゼロなのですが、
そこなら落とせる、落とせば華々しい勝利で国民や兵士たちを奮い立たせる事ができる。

インパール作戦というのは、そういった馬鹿々々しい発想で始まったのです。
それを提案したのが、後世にその悪名を轟かす、牟田口廉也中将でした。



最初、軍部はその作戦に反対でした。
物資の補給に難点があったからです。
インパールに到達するには、ビルマのアラカン山脈を越えなければなりませんが、
そこを陸路で行軍するのです。
制空権はイギリスに奪われているので、人力(牛馬)だけで重兵器を運ばなければならないのです。
そして、インパールに到達してもその後の物資を輸送する事は殆ど望めないのです。

しかし、牟田口中将は「ジンギスカン作戦」なるものを提案します。
要するに行った先で草木・動物を食料として行軍すればいいという、
真に馬鹿げた、いい加減な事を言い出したのです。
最初は反対していた軍部も牟田口中将の情熱に負けたのでしょうか?
作戦にゴーサインを出しました。

行軍が始まりました。
牛馬での行軍ですから、重火器といっても大した兵器は運べません。
しかし、それすら山脈越えは無理で、結局大した兵器は運べなかったのです。
そんな稚拙なヨタヨタの兵器で日本軍はインパールを攻めました。
最初は少数のイギリス軍しか居なかったのですが、
イギリスは航空機で一気に重火器を運び込んで重兵装に武装し日本軍に応戦します。

そうなると弾薬・食料の配給の無い日本軍にもう勝ち目はありません。
もう、戦争という状態ではなくなり、只々敗走の道へとなっていったのです。
そんな悲惨な状況に死刑覚悟で命令を無視して退却を決した将軍が居ました。
それが、佐藤幸徳中将です。



武器・弾薬どころか食料が全く無いのですから、兵士達の姿は兵隊でも何でもない、ただの浮浪者でした。
敗残のアラカン山脈を彼等は飢えに苦しみながら、
イギリス軍の追撃におびえながら、ただただ逃げ惑い落ち延びて行ったのです。
その道は「白骨街道」と呼ばれ、死屍累々たる餓死者に埋め尽くされていきました。

10万人の兵士が作戦に参加し、戦死者3万人、餓死者が4万人、
生き残って帰ってきたのが計算上では3万人居る筈ですが、多分それよりかなり少なかった筈です。
インパール作戦の生き残りと言うだけで、驚きをもってとらえられている位ですから。
餓死者4万人という数字はまさに驚愕です。

日本に帰還した佐藤幸徳中将は、牟田口廉也中将の宿舎に押しかけ、
「牟田口を出せ、叩き切ってやる」と軍刀を抜いて迫ったそうです。
それは正に鬼気迫る形相だったそうですが、牟田口中将は危機を脱して生き延びます。

陸軍は佐藤中将を精神鑑定にかけ「若殿ご乱心~」といった風を装い体裁をつくろいます。
牟田口中将は予備役に回され、士官学校の校長になります。
陸軍が佐藤を支持しなかったのは、上層部が作戦失敗を認めたくないという理由ですね。

牟田口中将は1966(昭和41)年に77歳で亡くなるまで、
自己弁護にきゅうきゅうとし、兵士達に対する謝罪は一切無かったそうです。
佐藤中将は1959(昭和34)年に65歳で亡くなっていますが、
一切の弁明をする事は無かったそうです。


さて、日本の軍隊という本質的なものが、ここにありますね。
ここに全てが読み取れますね。
縦社会だけで、横は無いのです。
それは現在になっても国民的な日本軍の体質・・私はそう感じています。

戦争中、東京湾に不時着水したB-29(アメリカの爆撃機)の搭乗員を救出に、
潜水艦などで救いに来るアメリカ軍と、
餓死者が沢山出ている状況を知りながら、作戦を止めようとしない日本軍。


今、日本は安保法でもめて、国会周辺に押しかけている人が大勢います。、
まあ私が戦争に行く事は絶対にあり得ないのですけどね。
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