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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

ドーリットル空襲

2020-07-19 16:37:38 | 軍事
ドーリットル空襲は1942年(昭和17年)4月18日。
日本本土がアメリカ軍により初めて受けた空襲でした。

前年1941年12月8日に日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発。
開戦後は日本の潜水艦9隻がアメリカ本土周辺の貨物船、タンカーなど5隻を撃沈し、
艦砲射撃によるアメリカ本土攻撃も行い、
それはアメリカ国民に非常に大きな衝撃を与えました。

ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から2週間後の時点で、
日本本土空襲の可能性を研究させていました。
これに対し、ロー海軍大佐が、空母からの空襲のプランを思いつきます。



選ばれた空母はホーネット。
排水量2万トン。全長247メートルです。
今までの空母艦載機では、飛行機が小型すぎて日本までの航続距離が足りません。
また爆弾搭載量も少なくて空襲の意味がありません。



いくつかの爆撃機の中から可能性の最も高かったのが、B-25爆撃機でした。
空母という狭くて限られたスペースから飛び立つには、様々な制約があります。
大型の爆撃機では空母からの発艦は無理です。
といってあまり小型でも空襲の役目は果たせません。
B-25は日本本土空襲の為にいくつかの改造を施します。

アメリカ本土からひたすら日本を目指しまっしぐら。
日本軍に発見される前に、太平洋の真っただ中から飛び立ち、
空母に戻る事はしないで、日本を飛び越えて中国に着陸するのが計画です。
それには長大な航続距離が求められます。
B-25は機体の軽量化と共に、予備のガソリンタンクを搭載したのです。





空襲を指揮するのは、ジミー・ドーリットル中佐。
爆撃機は全部で16機。
一機あたり5名が乗り組むので総勢80名です。



ホーネットの甲板には16機のB-25が所狭しとその時を待っています。




そして4月18日。
これ以上は日本には近づけないという地点から、
一機、また一機と16機のB-25は一時間をかけて飛び立って行きました。
空母から爆撃機が飛び立ったのは、これが初めてでした。

目指すは日本本土。
その内、10機は東京。横浜が2機。横須賀1機。名古屋1機。神戸1機。大阪1機でした。

爆撃の為に日本では死者87人。重傷者151人。
家屋の全壊、全焼は180戸でした。
被害そのものは大した事ではなかったのですが、
日本軍と日本国民に与えた衝撃は極めて大きかったのです。

日本本土への空襲を終えた爆撃隊は、
空母から発艦13時間後に中国に達しました。
航続距離は3600キロに及んでいました。
彼等は全員が同じ飛行場に着陸とはいかず、
それぞれが、てんでんばらばら状態で、
パラシュート降下などで降り立ったので、機体の15機は全損でした。
その中でも8名が日本軍の捕虜になり、
その中の3人は後に死刑となります。

80名のうち71名は6月にアメリカに帰国する事ができ、
彼等は英雄として称えられます。

この作戦が果たして成功だったのか、失敗だったのかは意見が分かれますが、
とに角、アメリカが勝ち誇った状態の日本に冷水を浴びせた事は間違いなく、
そういった意味では成功だったのかも知れません。
戦争というのはワンサイドゲームなんて殆どあり得ないのですから、
死刑にまでなってしまった兵士は気の毒だし、
まして、青天の霹靂で亡くなってしまった日本の一般市民はもっと気の毒ですね。





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戦争なんかに行きたくなかった!

2019-10-25 10:08:08 | 軍事
第177号 学徒出陣


昭和18年10月。
雨の神宮外苑で行われた学徒出陣の有名な映画です。

当時の大学生は現在の(多すぎる大学)と違い、
彼等はエリート中のエリートと言うべき存在でした。
親や兄弟、親戚といった親族から、
将来を嘱望された選ばれし存在の若者たちだったのです。

それが学業途中で大いなる夢を絶たれ、
くだらない戦争に引っ張り出される無念さは如何ばかりだったでしょう。
観客席には多くの家族たちや婦女子が声援に駆けつけています。
それらの人達は心で泣いていたのかも知れません、
しかし、実際に肉体に敵弾を浴びて死んでいく訳ではありません。
悲惨な最前線で死の恐怖と戦いながら、戦争をするのは学徒なのです。



私はこういった、ご飯と味噌汁を前にすると、
彼等の無念さを思います。



ミャンマー(以前のビルマ)国境の2000m級のアラカン山脈の険しい山々を
重火器を分解して兵隊たちに運ばせ、
それも重みでその殆どは途中で放棄せざるを得なくなり、
軽火器のみでイギリス軍を攻撃したインパール作戦。
その結果は、あまりにも悲惨でした。





10万の軍隊を投入して、戦病死7万人とも言われ、
その中には大量の餓死者が出たのです。



世界の戦争史でも、これほど馬鹿げた作戦は空前絶後。
これを発案し、最後まで断固として撤退を認めなかった大バカヤロー、
牟田口廉也中将。
私は、こいつの家族だけは今でも絶対に許せない。
作戦失敗の責任を取る事無く、安泰に戦後を生き延び、
天寿をまっとうしたこのバカヤロー、一族郎党は、
名乗り出て、何万人という若者たちを餓死させた責任を取れと言いたい。

また南太平洋の激戦地、ガダルカナル島でも大量の餓死者が出ました。
ゆえにガダルカナル(通称ガ島)は(餓島)とも言われました。
日本軍は太平洋戦争で、どれだけの餓死者を出したのか。
戦争で死ぬのは兵隊だから仕方ないとも言えるが、
餓死・・それはないだろう。
自分がそんな死に方をしたとは、家族には知られたくない。
立派に戦って、軍人らしく死んだと思われていたい。



彼等はどれだけ、白いご飯を思い浮かべながら死んでいったのだろう。

学徒出陣の映像の中の学生で、
生きて日本の土を踏めたのは・・それを思うと悲しい。
戦争に行くというのは、ほぼ生きて帰れないと同義語。
それが分っていながら、行かなければならない無念さ。

そして、その中で、「お母さん」と言いながら死んでいった者。
ただひたすら「メシが喰いたい」だけを思って死んでいった者。

今の若者たちが(食べ物)を粗末に扱ったり、
まるで、遊び道具みたいにしているのを見ると、心底腹が立つ。
(大食いコンテスト)なんて、きっとバチがあたる。

戦争・・これは人間として最悪、絶対にダメです。









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モンテンルパ

2017-10-13 19:56:53 | 軍事
あゝモンテンルパの夜は更けて


モンテンルパはフィリピンの首都マニラから、
南、約30キロにある街です。

そこには戦後、日本軍の戦犯を収容する、ニュー・ビリビット刑務所があり、
それは通称、モンテンルパ刑務所と呼ばれていました。



そこには、戦後4年も経つというのに、100名を越える、
戦犯たちが収容されていました。
旧日本兵に対するフィリピン人の恨みは大変なものでした。

最初、日本軍が上陸した時、フィリピン人達は喜びました。
同じアジア人だと、日の丸を振って迎えたのです。
それが半年もしない内に日本人はフィリピン人を見下し、
あちこちで傍若無人を働くようになります。

戦争が終わった時、あちこちでの日本兵による蛮行、
残虐行為が発覚し、フィリピン人達は旧日本兵に対する恨みつらみで、
日本兵を戦犯として逮捕します。
実際に残虐行為に係わった兵が、さっさと帰国してしまい、
残された兵たちが行ってもいない地での蛮行の責任を負わされ、
戦犯として収容され、死刑囚となった例も多々あり、
フィリピン人にすれば、手を汚したか否かではなく、
その恨みのぶつけ所があれば良かったのです。

フィリピンの人々の反日感情はふくらむ一方で、
日本人戦犯は格好の標的となったのです。
誰の目から見ても理不尽としか言いようのない裁き方で、
彼等は裁かれたのでした。

対日協力者達は、日本人戦犯を挙げる事で自分の身を守ろうとします。
「こいつだ、こいつがやったんだ」と彼等は声高に、
やみくもに日本人を指さし、罪を押しつけます。

モンテンルパ刑務所には教誨師(きょうかいし)が居ます。
教誨師・・・刑務所で受刑者に対し宗教や人倫を教え諭す人。

1949年(昭和24年)
真言宗・僧侶・加賀尾秀忍
(48歳)が6ヶ月の任期でモンテンルパに派遣されます。



この加賀尾という人物が発端となって、
日本人戦犯たちの一大救出劇が始まるのです。
そこには、当時のスター歌手であった、渡辺はま子も加わります。

加賀尾がモンテンルパに到着した時、
日本人たちは教誨師が来てくれた事に大喜びでしたが、
加賀尾は想像以上の悲惨さに声も出ませんでした。

加賀尾は戦犯たちからの信頼が厚く、
彼等の要望を受け入れ、6ヶ月の任期が過ぎても、
囚人と同じ房に住み込み無給で留まります。
結局、全員が帰国できる日まで、
「モンテンルパの僧正」と呼ばれ、
戦犯たちの父として、文字通り起居を共にする事となります。

加賀尾と共に、忘れてはならない人物が居ます。
復員局の植木信良です。
彼は復員局法務調査部の事務官でしたが、
比島戦争裁判関係業務担当を命ぜられます。
まだ28歳でした。

彼は戦犯として残されている人々と、
留守家族を把握する事から始めます。
彼は政府から任された仕事が容易ならざる事を感じます。

そして決心します。
「俺はフィリピンの戦犯が全部かたづくまでは、
どんな事があってもやり通そう、それまでは結婚もお預けだ」
植木は自分の結婚や若者らしい楽しみはさて置いて、
留守家族の為に走り回った。

モンテンルパの加賀尾を父とするならば、
植木は復員局の兄だった。

死刑囚の戦犯代表者から植木に、
加賀尾の運動資金を送って欲しいと依頼がきました。

誰も頼る人のいない植木は、ある日ラジオの対談を聞いていて、
「そうだ、この人に頼んでみよう」と、
一面識もない鉄道工業株式会社の菅原通済氏に会いに行きます。
菅原氏は彼の話を聞いて
「何とかしよう」と財界に持ち掛けます。
財界の人々に話が伝わり、十数万円の資金が集まります。

大蔵省もやっと加賀尾の外地手当を認め送金してくれる様になります。
植木は加賀尾の情熱に巻き込まれる様な形で、
「自分は日本の加賀尾にならねばならぬ」と考え、
給料の三分の二を留守家族の為に投入していたのです。
復員局の植木と、モンテンルパの加賀尾の連携プレーが、
やがて戦犯救済の日へと向かうのですが、
それまでには、まだ乗り越える壁は立ちはだかっていました。

1951年(昭和26年)
キリノ大統領の命により、
14名の死刑囚の死刑が実行されます。
これはモンテンルパの死刑囚たちはじめ、関係者達の心を打ちのめします。

14名の処刑者を出してしまった事を痛恨した加賀尾は、
今後一人たりとも失ってはならないと考えていました。
何としても彼等を守らなくてはならない。

「もう歌よりほかに無い」
歌によって日本人の心に訴えるほかは無いと加賀尾は思ったのです。
加賀尾の頭の中には「異国の丘」の大ヒットがありました。
昭和23年、シベリア抑留者によってヒットしたこの歌の存在があったのです。

加賀尾は死刑囚の中で文才のある38歳の代田銀太郎に作詞を命じます。
作曲は伊藤正康。
伊藤も勿論、作曲は素人。

代田と伊藤による曲は戦犯たちに受けませんでした。
加賀尾は作り直しを命じ、二度目の曲は戦犯たちに聞かせる事なく、
渡辺はま子(1910年~1999年)に送られます。
1952年6月の事でした。

ここでフィリピンの国会議員である、ピオ・デュランが登場します。
デュランは元日本駐在の大使で、大変な親日家でした。
渡辺はま子は元駐日大使のデュランと接する機会があり、
彼から、戦後何年も経っているのにマニラ・モンテンルパに、
百数十人の戦犯がつながれ収容されている事を初めて知ります。
また14名が処刑された事実も知ります。

ピオ・デュランを介してはま子は加賀尾と文通を始めます。
はま子は加賀谷に是非一度慰問に行きたいと伝えます。
そういった経緯があったので、渡辺はま子に曲を送ったのでした。



渡辺はその足でビクターに行って控室のピアノを弾き、
その場の皆に聞かせました。
ディレクターの磯部は「凄い、いい歌だ」「レコード化決定」と言ったのです。
宇都美清・渡辺はま子の歌声で吹きこまれたレコードは、
9月に売り出され20万枚を売る大ヒットとなりました。

その後、戦犯たちの手紙が次々とはま子の手元に届き、
熱い心が交わされる事になります。
はま子のレコードによって、
日本人たちはモンテンルパを知り、
百数十人の戦犯たちの存在についても気づかされたのでした。

同じ頃、朝日新聞社記者、辻豊は、日比賠償予備会談の取材目的で、
モンテンルパを訪ねるのですが、
初めて死刑囚たちの実情を知り、
新聞・ラジオを通して「残された人々を救え」と国民に訴えます。
モンテンルパは辻の人生を変えてしまいました。
「こいつらを救わないで何になる、何の為の人生か」
「彼等を救済する事こそ、俺の人生ではないのか」

この時点での戦犯は、
有期、無期囚50名。死刑囚59名の合計109名でした。

1952年(昭和27年)7月
渡辺はま子が国交のない(つまり正規のルートでない)フィリピン、
モンテンルパ訪問が実現。
戦犯たちを前に「ああモンテンルパの夜は更けて」を唄います。

1953年(昭和28年)1月。
モンテンルパ慰問録音テープはラジオで放送され、
大反響をよび、本格的な戦犯釈放運動の原動力になります。

オルゴール会社を経営していた元軍人の吉田義人氏は歌に感動し、
アルバム式オルゴール2冊を渡辺はま子にプレゼントします。



5月、フィリピンの大統領、キリノ氏と加賀野はマラカニアン宮殿で会見します。
記念として加賀野から大統領にオルゴール付き写真帳が手渡されました。
加賀野から黙って手渡されたアルバムを大統領は、
まず鎌倉彫の表紙を見つめ、それから表紙をめくります。
すると音楽が流れてきました。
流れてくる音楽をじっと聞いていましたが、
「これは非常に哀調に富んだ音楽ですが、何という音楽ですか?」
と訊ねました。



加賀野はこれは「ああモンテンルパの夜は更けて」という歌で、
死刑囚が作詞・作曲したものです、と答えました。
キリノ大統領は深くうなずいて、もう一度メロディーに耳を傾け、
聞き終わると静かにアルバムを閉じてポツリとつぶやきました。
「7月4日の独立記念日には日本人二人を釈放してあげましょう」

キリノ大統領の心に、この時、何かが起こったのでした。



キリノ大統領の妻子は日本軍に殺されているのです。
その恨みは根強いものです。

その日、キリノ大統領の元に加賀野が訪ねて来る事は、
キリノにとっては、ハッキリ言って気が重い事でした。
日本人の言う事は初めから分かっている。
いい加減に戦犯を釈放しろと涙でも流して、
泣き落とさせようというのだろう。
そんな涙には騙されないぞと、最初から身構えていた。
それくらいの事で許せる問題じゃないんだと用心していたのです。

ところがそうではなかった。何も言わないのだ。
黙ってこのアルバムを土産にと手渡しただけだったんだ。
アルバムを開けると「ああモンテンルパの夜は更けて」という
死刑囚が作ったというメロディーが流れてきた。
言葉の代わりに音楽をアルバムに仕込んできて、それを黙って手渡された。
それが私の心の琴線に触れた。
私は初めて心を動かされたのです。

帰る時にも涙など流さずに、
「日本人の家族の者たちは待っております」と、たった一言。
日本は戦争に負けたとはいえ、かくの如く巧妙にして、
しかも堂々たる外交が出来る者が居る。
一同よくこの日本人に学ばねばならないぞ。

憎しみの連鎖からは何も生まれない。
憎しみは何時か何処かで断ち切らねばならない。
キリノ大統領は決断したのです。



7月4日、フィリピンの独立記念日。
キリノ大統領は正式に日本人戦犯の恩赦を発表します。

7月15日。
戦犯全員が17名の遺骨と共に白山丸でマニラを離れ日本に出発。





7月22日、横浜・大桟橋に帰ってきました。
28000人という人達が彼等を盛大に迎えました。

ああモンテンルパの夜は更けて


たったひとつの歌が、
見捨てられ、忘れさられていた戦犯たちの命を救ったのでした。
それには加賀野秀忍・植木信良・菅原通済・ピオ・デュラン・辻豊・渡辺はま子・吉田義人・
多くの方々の涙ぐましい尽力があったのですね。

本当に音楽の持つチカラは素晴らしい。
日本人として忘れてはならない感動的な物語です。





    
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シンドラーと杉原千畝

2017-09-17 18:56:25 | 軍事




シンドラーとは、
1993年、スピルバーク監督のアメリカ映画「シンドラーのリスト」で、
描かれた実在の人物(オスカー・シンドラー)です。
彼はドイツ人実業家で、
自身が経営する軍需工場に必要だという名目で、
1100人以上のユダヤ人の命を救い、その行いが映画となりました。



オスカー・シンドラー(1908~1974)66歳。ドイツ人。
彼は、27歳からドイツ国防軍諜報部員として活動する様になります。
31歳で、ナチス党員になりました。

その頃、戦争で一儲けを狙いポーランドに来ます。
彼は、ナチに没収される前に、ユダヤ人が所有していた、
琺瑯(ほうろう)容器の工場を買い取り、闇商売で資産を拡大します。
彼の工場はドイツ軍の厨房用品を製造して、急速な成長をとげます。



工場は1942年末までに巨大なホーロー容器工場、
及び軍需工場に成長しました。
そこには800人近くの労働者が働き、その中には
370人のユダヤ人もいました。

シンドラーは快楽主義者で遊び人で、金を湯水の様に使っていました。
プレイボーイでもあった彼は、いつの日か反ナチスへと変化していきます。
彼のナチス党政権への抵抗は、イデオロギー的な理由ではなく、
無力なユダヤ人達に対する扱いに、怒りを感じたからでした。
(彼の子供時代の友人にはユダヤ人が多かった)
彼の経済的な関心は、
多くのユダヤ人を救済したいという願望に変化していったのです。

最後に彼は、その目的の為に全財産を投げ出すだけでなく、
自分の命まで賭けようとしたのです。
戦争が終わった時のシンドラーは、ほぼ無一文でした。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、
彼の工場が軍需工場という事で特別な格付けを承認されていた事でした。
彼はナチス党員でしたから、
その立場を利用し、強制収容所の所長と仲良くなりました。



アーモン・ゲートという、この収容所長はその日の気まぐれで、
ユダヤ人達をピストルで撃ち殺すという様な残忍な恐怖の男でした。
その男と飲み友達だった事で、
ユダヤ人達を比較的条件の良い環境にする事が出来ました。

戦後の彼は不運続きで、手掛けた事業がことごとく失敗したりで、
資金繰りに行き詰っていたのですが、
そんな噂が彼に命を助けられたユダヤ人に伝わり、
彼をイスラエルに招待します。
彼はドイツとイスラエルとの生活をする様になります。
ドイツとイスラエルとの二重生活は彼が亡くなるまで続きました。


さて、杉原千畝(すぎはら・ちうね)
1900年~1986年  日本の外交官。



中国ハルピン学院に入学。ロシア語を学ぶ。
ロシア語の堪能さはずば抜けていて、ロシア人と間違われるくらいでした。
1938年(昭和13年)
リトアニアのカウナスに外交官として赴任。



当時、リトアニアはソ連軍に占領されていて、
ソ連が各国にリトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めていて、
まだ業務を続けていたのは日本領事館しかありませんでした。



1940年7月18日朝。
日本領事館の前に大勢のユダヤ人たちが押し掛けてきました。
ナチの迫害から逃れる道が八方塞がりで、
逃げ道はシベリア鉄道を経てアジアに向かうルートしか残っていなかったのです。

彼等にビザを発給するには、日本外務省の了解が必要です。
しかし、外務省の了解を待っていたら間に合いません。
杉原は悩みます。
しかし、杉原は己の信念にかけて、外務省の命令を無視します。

外務省からは「厳密な審査に合格した者のみビザを発給する様に」
でしたが、杉原はそんな命令より人道を取ったのでした。

ソ連政府や外務省から再三の撤去命令を受けながら、
杉原は一ヶ月余り、寝食を惜しんでビザを書き続けました。



9月5日。
日本政府の命令でベルリンに旅立つ列車の人になっても、
杉原は車窓からビザを手渡していたのでした。
汽車が走り出し、もうビザを書き続ける事が出来なくなった杉原は、
「許してください、私にはもう書けません、
皆さまのご無事を祈っています」と頭を下げると、
「スギハラー、私達は貴方を忘れません」という叫び声が起こったのです。

戦後、命の恩人の杉原をユダヤ人たちは探しますが、
杉原は自分の名前が外国人には発音しにくいので、
千畝(ちうね)を(せんぽ)と言っていたのです。
ですから彼等が「せんぽ・すぎはら」と言っても、
外務省にはその名前が無く、捜索に時間がかかってしまいました。



ゾラフ・バルハフティク(イスラエルの政治家)
彼は命を助けられてから29年ぶりに杉原と再会します。
その時初めて、失職覚悟でビザを発給した事を知ったバルハフティクは驚愕します。
1998年、彼は日本政府が杉原を表彰していない事を、
残念であると述べています。



2015年、唐沢寿明・主演の映画になりました。

シンドラーと杉原と・・・
救った人数で言えば、杉原千畝はシンドラーの5倍も多いのです。
でも、人数の多い少ないではなく、
彼等が人として、己の信念にかけて、
人間としてやるべき事をやった、という点では同じなんですね。

日本にこんな世界に誇るべき人が居たという事に感動します。

人間ってこんなにも素晴らしいんだなと、心から思うのです。






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ヨーゼフ・ゲッベルス

2017-02-18 04:18:45 | 軍事


ヨーゼフ・ゲッベルスはナチスの宣伝相でした。

ヒトラーを取り巻く側近は何人か居ました。



副総理・・ルドルフ・ヘス



親衛隊長官・ハインリッヒ・ヒムラー。



空軍相・ヘルマン・ゲーリング



海軍元帥・カール・デーニッツ



こういった側近の中で、最後までヒトラーに忠誠を貫いたのは、
ヨーゼフ・ゲッベルス、ただ一人でした。

1897~1945(47歳)
ヒトラーより8歳年下。
母親はオランダ人でしたが、彼はこれをひた隠しにしていました。
純然たるゲルマン系ナチス・ドイツ人であるべき自分が、
ドイツ人以外の血である事など許されるべきではなかったのでしょう。

ちなみにヒトラー自身も、ユダヤの血が入っていたとの情報もあり、
ヒトラーはそれ故に(何でよりによって俺がユダヤなんだ)という無念さがあり、
徹底的にユダヤ人を憎み、排斥したのかもしれません。

4歳で小児麻痺を患い、手術。
その後、発育が著しく遅れ身体障碍者になります。
いわゆるビッコ(放送禁止用語)
その為に身長が165センチというドイツ人の中では極めて小男でした。
ちなみにヒトラーも身長175センチという、あまり大きくはない男でした。

頭脳は優れていましたが、
ビッコでチビの彼が人より上に行くのは大変で、
自分を大きく見せる為にその頭脳を使いましたが、
それ故に同級生からも教師からも嫌われ者だった様です。

1914年、第一次世界大戦・・
彼は軍隊に志願しますが、勿論、不合格。
そういった事は、男としてのプライドをひどく傷つけます。

1923年(26歳)頃より、貧困に苦しみ、
反ユダヤ主義を芽生えさせます。
(それ以前は、ユダヤ人に同調的だったのですが)

1924年(27歳)頃より政治活動に踏み出します。
翌、1925年にヒトラーと初めての会見をし、
ヒトラーに魅了されます。
この事が彼の運命を決定ずける事になります。

ヒトラーは演説の天才と言われました。
初めは、ヒトラーに反対派の人であっても、
演説の最後になると、ヒトラーに心酔してしまう程、演説の天才でした。
そのヒトラーには及ばないまでも、
ゲッベルスも演説が上手かったのです。
ヒトラーはその才能を買います。
そしてナチス権力者への階段を登っていったのです。

ゲッベルスというビッコの小男は、
ヒトラーという天才の元で、その才能が花開いていったのです。
その事はゲッベルスも充分に承知していました。
自分は、自分だけの力では何も出来ない、
ヒトラーという大輪に寄り添う事で、花開くのだと承知していたのです。



ゲッベルスはマクダという女性と結婚します。
彼女は再婚のバツイチでした。
ゲッベルスは、その権力を下に、恋多き男でもありました。
また、妻のマクダも彼一人だけの女ではなかったみたいです。
しかし、彼等の間には一人の男の子と5人の女の子が生まれます。

生涯独身だった(最後は結婚しましたが)ヒトラーには、
彼等夫婦が、ナチスとしての鏡みたいな夫婦に感じます。
ゲッベルスもそういった事を感じ、
真相は仮面夫婦であっても、ナチスとして理想的な鏡となる夫婦を演じます。
彼等、家族はプロパガンダになり理想像を映画に撮らせるのでした。



しかし、戦争は悲劇的な結末を迎え、
とうとうヒトラーは愛人と共に自ら命を絶ちます。
その翌日、
ゲッベルス夫妻は、6人の子供に毒を飲ませます。
長女は13歳であったので、それを飲むという事がどういう事かを悟り抵抗します。
その為に彼女の顔は殴られて傷を負っていました。

彼等の子供6人は、
自分たちの両親が、どういった地位に在る親かも知らず、
自分たちが映画に撮られ、それが当時のドイツ人達にどういった影響を及ぼすかなんて、
知る筈もなく、すくすくと育っていきました。



子供って、本当に可愛い。
子供には、何の罪もありません。
子供を泣かせる奴って許せませんね。
子供は親を選べない・・そこが可哀想。

あくまでもヒトラーに忠誠を貫いて彼は逝きました。
彼だけが、最後の最後まで忠実だったのです。
しかし、彼の家族にとっては、はた迷惑な父親でした。

権力というのは本当に怖いものですね。
それが故に極楽浄土の夢を見たのでもあるし、
それが故に、地獄も見なければならなかった人生。

戦争というやつは・・人生というやつは・・・


私達、歌声の人生は、それほどの夢ではないかも知れませんが、
そこそこ、いい人生でありたいですよね。


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