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覚えていますか、豊浜トンネル事故

2021-07-10 07:08:54 | 事件・事故
豊浜トンネル岩盤崩落事故 ドキュメント






1996年2月10日、午前8時10分。
北海道の積丹半島の海岸線にある国道の豊浜トンネルで、
後世に残る大事故が発生しました。
豊浜トンネル事故です。





コンクリート製の豊浜トンネルの上から、
高さ70メートル、幅50メートル、厚さ13メートル、
推定重量5万トンと言われる巨大な岩が落ちてきたのです。
豊浜トンネルはぶ厚いコンクリート製でしたが、
5万トンの重さに、たやすく突き破られてしまいました。

中に居たのは一台の路線バスと乗用車でした。
彼等とすれ違った乗用車が一台いたのですが、
一瞬の幸運で被害を免れる事ができました。

さて、乗用車には若い男性1名が乗っていました。
また路線バスには運転手を含め19人が乗っていました。
乗客18人の殆どは10代の学生さんだったそうです。
8時10分というのは丁度通学時間だったのですね。

私はこの悲惨な事故をよく覚えています。



しかし、巨大な岩に押しつぶされたトンネルの画像を見ると、
これでは人間が生きていられる筈はないと思いました。
また連日放送されるテレビを観ていても、
この巨大な岩が取り省かれるには、いったい何日かかるかとヤキモキしました。

遺族たちは、もう望みは無いと心では分かっていても、
若い彼等を想うと、一瞬たりともジッとしていられず、
救助に当たる人達に、その怒りをついぶつけてしまうのでした。

7日か8日後に発見された乗用車は原型を留めず、
高さ3メートルあったバスは1メートルまで押し潰された姿だったそうです。
そこに居た人達がどうなってしまったか、本当に胸が締め付けられるのでした。



結局、豊浜トンネルを復活させる事は放棄され、
新しいトンネルを山側に新設して、現在の豊浜トンネルが在るそうです。
そうですね、こんな危険な地形を復活させても事故は二度起こりかねません。
静岡県焼津の、大崩れ海岸もそうなんですが、
こういった危険極まりない場所は、日本中いたる所に存在しています。

あの事故はあまりにも気の毒でした。
もう忘れてしまった人も多いかと思いますが、
あまりにも悲惨な事故だったので、私は今でも忘れられないのです。




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20世紀最大の被害・唐山地震

2021-04-09 19:41:45 | 事件・事故
あの時、辛い選択を強いられた母は……!映画『唐山大地震』新予告編




1976年7月28日、深夜3時42分。
中国の唐山市で大規模な首都直下型大地震が発生しました。
地震のマグニチュードは7,5という巨大地震でした。
(関東大震災はM6,9。東日本大震災はM9,0)

この地震の死者は24万人という20世紀最大の被害者を出しました。
しかし、中国政府の発表は信憑性に欠け、実際はその数倍だったとも言われています。

冒頭の映画は2010年に制作された物で、
唐山地震を基に作られたドラマですが、
地震を知る参考にはなると思います。





唐山市の人口は現在750万人。
天津市は1500万人。
北京市は2100万人ということです。

その位の大都市であった唐山市は、住宅の全壊率が94%という、
ほぼ壊滅的な被害となったのです。

日本人の中で1976年のこの大災害をもたらした地震を、
知らないという人の方がずっと多いと思います。
私も、ずっとそれを知りませんでした。
それを知ったのは中国人の妻と結婚した頃だったか?

その当時の妻は21歳くらいで天津大学の大学生でした。
それで妻に唐山地震の事を訊いた事があります。
それに対する妻の答えは、
「地震あったわよ、結構揺れたよ」程度の拍子抜けする様な返答でした。

唐山と天津とはだいたい100キロ離れています。
北京とは130キロ程度の距離です。
100キロと言えば、その位の大地震だったのですから、
「もの凄い揺れで今でもその恐怖は忘れられない」
といった返答があるかと思っていた私は、その後の質問が引っ込んでしまったのでした。
何と言いましょうか、妻はそういった事に殆ど興味が無かったのです。

その頃の中国の建築物はほぼ耐震性など皆無の石造りだったのでしょう。
多くの人々は瓦礫となった建物の下敷きになって命を落としました。





しかし、そこまで被害者が多くなった理由は、
あの文化大革命だった事です。
その文化大革命はもう末期だったのですが、
中国は「自立で立ち直る」などと馬鹿げた見栄を張って、
外国からの援助を拒否するという政治主体の愚行で、
生きられた人々をむざむざ死に追いやったのでした。

毛沢東という人物は、
1958年から1961年までの大躍進政策で、
4000万人ともそれ以上とも言われる人を、餓死させるという過ちを犯し、
更に1966年から1976年までの文化大革命では、推定2000万人を殺し、
どこまで中国人を殺しまくれば気が済むのでしょうね。



現在は、震災記念碑が建立されています。





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桜木町事件

2021-02-22 07:06:25 | 事件・事故


私は以前、横浜に長く住んでいましたので、
桜木町事件という電車の火災事故で多くの人が亡くなった事件を知っていました。
その場所は、横浜駅から桜木町駅の間の高架になっている場所です。



高架になっている下は、この様な無機質で半分暗渠みたいな道で、
まるで面白味の無い直線が1キロも続くのです。
私はそこを3回くらいは歩いた事があります。
そこを歩くと「この真上の線路で、あの桜木町事件があったのだな」と、
思わずにはおられませんでした。



事件は1951年(昭和26年)4月24日、午後1時38分頃に起きました。



国鉄・桜木町駅から200メートルくらい横浜駅寄りの上り線で、
架線工事をしていた作業員が工具のスパナを誤って落としてしまったのです。
その為に架線がワイヤーに接触しショート、ワイヤーが断線しました。
断線して架線が垂れ下がってしまったので、
作業員たちは上り線の列車を進入させない様に手配をしましたが、
下り線に対しては措置を取らずに、通常通り運行できると判断したのでした。



その時、横浜駅方面から下り電車が進入して来ました。
運転手は架線が垂れ下がっているのに気づかずにそのまま時速35キロで進入。
その時、垂れ下がっていた架線がパンタグラフに絡まってしまったのです。
運転手は急いでパンタグラフを降ろそうとしたのですが、
パンタグラフは破損し電車の車体と接触しショートしてしまいます。
電車の屋根の部分から発火し、火は瞬く間に車体へと燃え移ってゆきました。

先頭車両は瞬く間に燃え広がり、火は2両目にも移ってゆきました。
先頭車両は10分間で全焼、2両目は半焼したのでした。
この火災で死者106人、重軽傷者92人を出す大惨事となってしまいました。



事故車両の窓は3段構造になっていました。
上の段と下の段は上下動させて開きますが、真ん中の窓は固定式で動きません。
上下の窓の隙間は、29センチでした。
その隙間からの脱出は火災の中では殆ど不可能でした。
自動扉を開けようにも電流のショートにより開けられず、
乗客たちは非常用コックの位置など分かる筈もなく、
車両と車両を連結する通路のドアは外部から鍵がかけられていて開く事は出来ませんでした。
かろうじて1両目と2両目の間のドアは開けられる筈でしたが、
そのドアは左右にスライドさせる形式ではなく、
取っ手を引っ張って開ける形式だった為に、
脱出しようと必死で押し寄せる乗客の圧力で開く事が出来なかったのです。
更に事故現場が高架路線だった為に消火活動も殆ど出来ずに、
外の人々は、乗客達が助けを求めながら焼け死んでゆく姿をただ見ているしかないという、
地獄絵を産んだのでした。

この当時の電車は戦後の、まだ未成熟で不完全な車両で、
極めて燃えやすい材料やペンキで覆われていたのです。
乗っていた客たちは逃げ場の無い密室で焼け死ぬしかなかったのでした。



この事件を機に、車両は進歩して行きましたが、
人間は生まれてくる時代を選ぶ事は出来ずに、
「こんな理不尽な死に方があるか」と思っても、どうにもならないのです。
電車の中に居たか、外に居たかで、天国と地獄。
時代とは言え、本当に気の毒な事件でした。


コメント (5)
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