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アルカトラズからの脱獄は成功したのか?

2022-02-10 05:32:35 | 事件・事故
【映画紹介】IQ160の犯罪者が絶対に脱獄不可能な刑務所に入ると起こること






アメリカ西海岸のサンフランシスコ湾に在る小島、アルカトラズ島には、、
有名なアルカトラズ刑務所がありました。





ここは何度も脱獄を繰り返したり、重犯罪者だけが収容される刑務所でした。
あの、マフィアの大ボス、アル・カポネも入っていた事があります。
サンフランシスコという大都会の目と鼻の先にある、
この島からの脱獄は絶対に不可能と言われる恐るべき刑務所でした。

刑務所は1934年に造られ、閉鎖されるまでの29年間存在し、
その間に14回(36名)の脱獄が決行されましたが、
23名が再び逮捕され、6名は射殺され、2名が溺死しました。
残り5名のうち3名が、映画にもなった脱獄犯であり、
後の2名は行方不明で溺死したと判断されています。





1979年に、クリント・イーストウッド主演で映画化されました。

1962年6月11日、午後10時30分頃、
3人の囚人がいよいよアルカトラズからの脱出を計ります。

そもそも、この計画を立てたのは、アレン・ウェスト(33)でしたが、
彼は他の3人が独房から脱出する事が出来たというのに、
彼一人だけが上手くいかずに独房から出られなく、彼等に合流できなかったのです。

脱獄した3人は、



フランク・モリス(35)
映画でクリントイーストウッドが演じたのは彼でした。
彼は様々な犯罪を犯した犯罪者ですが、彼の知能指数は高く、IQは133あったそうです。
ただ彼は他の2人に比べて小柄であり、体力的には最も劣っていたみたいです。



ジョン・ウィリアム・アングリン(32)



クラレンス・アングリン(31)は兄弟でした。

彼等3人(4人)の計画は用意周到で、
あらゆる方法でこれ以上はないほど、仕組まれたものでした。







圧巻はこれに尽きます。
頭部を歯磨き粉や粘土、絵具などで本物みたいに作り、
これをベッドに置いて、さも熟睡してる様にごまかし、
発見を朝まで遅らせる事に成功したのです。





独房からの脱出口がこれで、
バレない様にすぐに誤魔化せるダミーの金網まで作っていました。

独房を出た彼等は上部まで伝って行き、
看守からは見えない場所にあった、脱獄道具の製作作業場を通って、
海岸まで行ったのでした。
そこから彼等は海を手作りボートで海に乗り出して行きました。
そのボートは長さ4,2メートル、幅1,8メートルで、
それは集めたレインコート50枚を縫い合わせ、油を塗った船体でした。



勿論、オールも作りました。

そこまでは本当に信じられない成功でした。
しかし、サンフランシスコ湾は潮流がとても激しいのです。
最も速い時は時速5キロ以上はある様です。
更に水温は10度あるかなしかの冷たさ。
そんな状態で人間は30分くらいしか保たないそうです。



有名なゴーデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)が湾の出口にあります。
そこに向かって行く流れ、そこから逆流する流れ、
それが1日2回あるそうですが、その間の潮目は比較的緩やかだそうです。

彼等が脱獄に成功したのか失敗したのか?
それは今もってアメリカ国民の注目を集め、
何人もの科学者などが、様々な実験を試して、その成否を論じ、
国民はそれに注目しているみたいです。
しかし、FBIは1979年に捜査を終了しました。
彼等は溺死したと結論づけたのです。

私は個人的には、彼等は溺死したと考えています。
何故なら、この計画の立案者であり、結局脱獄に遅れて参加できずだったアレン・ウェスト。
彼は脱獄発覚後は警察に協力し、罪に問われなかったそうですが、
事件から5年後の1967年に釈放されシャバに戻ったのですが、
翌1968年に重窃盗で逮捕されました。
1978年に刑務所内で腹膜炎で49歳で亡くなりました。

結局、彼等みたいな根っからの犯罪者体質の人間が、
もし脱獄に成功したとしたら、再び犯罪を犯すのです。
3人が3人とも、全く消息を消し去るなんて、あり得ないと思うからです。
犯罪ではないにせよ、何かが出て来る筈だと考えるべきだと思います。



しかし今もってアルカトラズからの脱獄はアメリカ人には、
ある種の夢(ロマン)的な悩ましさで論じられている様ですが、
彼等が生存していたとしたら、既に80歳以上です。
こういったモンタージュ写真が制作されるという事が、如何にもロマンを感じさせます。
ですが数年後にはこのロマンも完全な終焉を迎えるのでしょうね。




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京浜運河の惨劇

2022-02-04 14:43:48 | 事件・事故
[昭和37年11月] 中日ニュース No.462_2「炎の海を恨む -京浜運河の教訓-」


1962年(昭和37年)11月18日(日)午前8時11分。
川崎の京浜運河で大事故が発生しました。





京浜運河というのは、全長7,5キロ。幅500~600メートル、人工の運河で、
日本を代表する重化学工業の工場が建ち並び、
大小の船舶が頻繁に往来する大動脈なのですが、
何時かこういった大事故が起こるのではと杞憂されていたのでした。



事故を起こしたのは、ノルウェーの石油タンカー、タラルドブロビグ号(21600トン)と、
日本のガソリンタンカー、第一宗像丸(1970トン)でした。
写真左がノルウェー船で、右側が第一宗像丸です。





この2隻がどちらかの過失で、
ノルウェー船が第一宗像丸に衝突し、第一宗像丸の船体の亀裂から、
ガソリンが流れだしたのでした。

この時、第一宗像丸の後方100メートルを、
重油160キロリットルを積んだ、小型タンカー、太平丸が後続し、
更にその後方100メートルには、ゴム65トンを積んだ宝栄丸が居ました。

第一宗像丸は衝突と同時に停船しました。
それに続いていた太平丸は衝突を避ける為に、そのまま進んでいましたが、
第一宗像丸の左舷側をすり抜け、巨大なタラルドブロビグ号の前方で停船しました。
それは流れ出ているガソリンの帯の中に浮かんでいる格好でした。
その時、太平丸では朝食の準備中で、船尾にある厨房では食事の煮炊きをしていたのです。

第一宗像丸の船長は、自船から流れ出るガソリンを見て、
火災の恐れあり至急救援を乞う、と直ちにSOSを発信し、
事態のただならぬ状態が如何に危険性が大きいかを感じていました。

そして太平丸の煮炊きの火は、遂にガソリンの気化ガスに一気に引火して燃え広がり、
第一宗像丸は大爆発を起こしてしまいました。
京浜運河は完全に炎と爆発音に包まれ地獄絵になっていました。
事態はまさに恐れていた最悪の事態へ突き進んでいったのです。
京浜運河は大爆発の爆音が轟き、運河全体が火炎地獄に化していました。

事故発生と同時に京浜運河は全面閉鎖になり、
消防局・海上保安庁・横浜港駐留の米軍からも、
多数の消防車・消防艇による消火活動が行われ、
翌日、午後には鎮火し火災は収まったのでした。

この事故の犠牲者は、
第一宗像丸は36名の乗組員全員死亡。
宝栄丸は爆発と同時に乗組員は運河に飛び込み対岸に逃れましたが、
逃げ遅れた2名が焼死。
タラルドブロビグ号は甲板員1名死亡。
太平丸は2名が焼死で、合計41名が死亡したのでした。



火災で燃え尽き、36名全員が亡くなった第一宗像丸の変わり果てた姿。

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セウォル号沈没事故

2021-09-19 19:49:19 | 事件・事故
千の風になって セウォル号追悼曲 沈没事件2014年4月16日 日本より黙祷


今から7年前、
2014年4月16日、韓国でセウォル号沈没事故が起こりました。
その悲劇的な事故は、あまりに悲惨で忘れられない事故というか(事件)でした。



4月15日、修学旅行へ仁川港から済州島を目指す壇園高校2年生の生徒325人を含む、
引率教師14人、一般乗客108人、乗務員29人の、
合計476人の乗るセウォル号は午後9頃仁川港を出港しました。
476人の内、高校2年生がほぼ7割という比率でした。

その日は濃霧の為に午後6時の出港時間が約2時間遅れの出港でした。
4月16日、
8時49分・・屏風島と観梅島あたりで、
       船は突然右に45度旋回した後に傾き始めます。
8時52分・・更に北に旋回(時速9キロに減速)
       急激な旋回で船体は横倒しになり、
       乗客の少年が携帯で消防に通報
8時54分・・消防への通報が海洋警察に通報されます。
8時58分・・セウォル号が遭難信号を発信、海洋警察が受信します。
9時17分・・セウォル号が海上交通センターに救助を要請。
10時10分・乗客は海へ飛び下りろと船内放送。
10時17分・沈没が始まる



4月17日・・悪天候の為、救助難航ほぼ中断。
4月18日・・わずかに浮いていた船体が完全に沈没。
4月26日・・乗組員15人全員を逮捕。
5月15日・・船長ら4人を殺人罪で起訴。
2017年3月24日、事故から2年11か月後に船体の引揚完了。

死者は299人、行方不明者は5人となりました。
476人中、実に68パーセントが死亡という大惨事になりました。

しかし、この事故は事故というにはあまりにも人災に近く、
事件と言ってもいい事故なのです。



セウォル号は元々日本で1994年に建造された船でした。
鹿児島と沖縄をを航行する「フェリーなみのうち号」でした。

2012年に韓国の清海鎮海運に、
スクラップ同然の8億円で売却されました。
清海鎮海運は数々の改造が施され、
最初は5997トンだったのが、6825トンまで増加しました。
この改造は違法ではないのですが、
重心が高くなり、バランスを取るのが難しくなりました。

セウォル号については様々な悪評が付いています。



〇 セウォル号の積載量は987トンでしたが、
  実際は3608トンと上限の3,6倍という過積載だったのです。
〇 船体のバランスを保つのに必要なバラスト水は、
  復元力を保つ為には2000トンが必要だったのですが、
  船長は過積載をする為にバラスト水を捨てて、580トンしか無かったのです。
〇 コンテナ固定の固定装置を使わずに、ロープで縛っただけでした。



〇 イ船長(69歳)は、事故当時、操舵室を留守にしており、
  乗客の避難誘導を全くせずに、自分が真っ先に脱出した。
  乗組員である所か船長である事を隠す為に、半ズボンというか下着姿で、
  救助されようとするイ船長の卑劣な姿。

〇 イ船長は非正規社員であり
  本来の47歳の船長に代わって船を操縦していた。
〇 一等航海士に代わって新人の三等航海士が、
  危険区間である海域の指揮を執り、
  時速30~33キロで航行すべき所を、時速39キロで航行し、
  急旋回により船体が傾き荷崩れを起こした。



〇 事故事の避難誘導はなく、「救命胴衣を着用して待機してください」の、
  船内放送があっただけで「動かないでください」と繰り返すばかりで、
  多くの高校生たちはそのまま待機した事で被害を多くにした。
  この可愛い女の子たちの多くが悲しくも還らなかったのです。

〇 運航会社の清海鎮海運は、故障や事故を繰り返し、
  社員教育もいい加減、セウォル号の船体復元性にも問題がある事を、
  把握していたのですが、一切の対策を採らなかったのです。
〇 水圧を感知して膨らむ救命ボートを46艘を積んでいましたが、
  固定器具が錆びついて外せなく、ほぼ全部が使用不能だったのです。
〇 仁川~済州島航路を運航するにはセウォル号は船体が大き過ぎて、
  就航基準を満たしていなかったが、
  清海鎮海運は監督局のトップに賄賂(500万円)を渡して許可を得ていました。
  この会社は全くとんでもないブラック企業であり、
  法的にも国家的にも韓国という国は本当に安全など臨むべくもありませんね。

韓国という国の建物、構造物、交通機関にはあまりにも問題が多く、
安心して行かれない、乗れないという不安感が付きまといます。
これは中国に関しても似た事が言えます。
これからも、きっとこの類の問題が起こる気が拭えません。
まずいね、こういった点は早急に改善しないと国際的な信用は得られませんね。

2017年1月13日のブログに、
「呪われた船」として、1955年(昭和30年)に、
瀬戸内海の宇高連絡船で、セウォル号と似た状態で、
多数の子供たちを乗せた紫雲丸が沈没し、
168人という人達が亡くなってしまった事故を書きましたが、
船長は助かる可能性がありながら、
自分が犯した取り返しのつかないミスに耐えられず、
自ら船と運命を共にして死んで行きました。

船と一緒に死んで行くのは、過ちの原因が分からなくなるという責任放棄ではありますが、
その気持ちは痛いほど理解できます。
それに対してセウォル号にイ船長の、あまりにも責任感も人間としての自覚も皆無であり、
卑劣極まりない姿を晒してまでも(生)にこだわり続ける下らない人間です。
彼は結局、殺人罪を適用され無期懲役になりましたが、
今までの自分の人生の全部を世間から否定されながらでも、生きていたい。
その気持ちが全く理解できませんね。

欧米の何処の国だったか、
貨物船の船長として立派な実績がありながら、
たった1度のミス。
貨物積載時に計算を誤ったか、船体が傾いたままで出港し、
遂には転覆するという取り返しのつかないミスに耐えられず、
彼も船と運命を共にして死んで行きました。

その行為が適切だったかは兎も角、
自分がやってしまったミスを、自分自身が許せなかったという気持ちは理解できます。

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北のひめゆり・真岡郵便局事件

2021-09-13 09:36:13 | 事件・事故
「北のひめゆり」皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら(真岡郵便局事件)




樺太(からふと)は、当時日本領でした。
昭和20年8月、一方的に条約を破棄したソ連軍は、
8月15日の終戦の日、以降も戦闘が続いていました。

樺太の南に位置する真岡町(まおか)郵便局の電話交換手は、
引き揚げをせずに勤務中でしたが、
8月20日のソ連軍が真岡町に迫って攻撃を受け、
12名のうち10名は局内で自決を図り9名が死亡し、
「北のひめゆり事件」と呼ばれました。





8月9日
 ソ連が参戦し、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まります。
8月15日(敗戦の日)
 真岡港から島民の北海道への緊急疎開が開始されます。
8月16日
 真岡郵便局の主事補、鈴木かずえにより、
 仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは、
 業務を遂行しなければならない。
 残って業務を続けて貰える者は、一度家族と相談した上で
 返事を聞かせて欲しい旨の話がありました。
8月17日
 全員が疎開せずに局に留まる用意をしていると局長に報告。
 局長は今後の危険性を説くが局員たちに納得して貰えなかった。
8月19日
 非常体制が敷かれる。
 この日は19名(男性5名・女性14名)が局内に居た。

映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編


8月20日
 ソ連軍が接近し民間人に対しても無差別攻撃が加えられた。
 この時、局内には12名の女性が居ました。
 ソ連軍の攻撃が激しくなり交換手はいよいよ最後の瞬間が迫った事を察知します。
 彼女は電話で最後にお別れの発信をしました。
 「みなさん、これが最後です、さようなら、さようなら」

 7名が青酸カリ、あるいはモルヒネで自決。
 死者は9名、生存者は3名でした。

この事件は1974年に映画化「樺太1945年夏、氷雪の門」されましたが、
上映直前になって配給が中止されました。



2008年に、日本テレビでこの事件を元にドラマ化し放送されましたが、
史実とは異なる部分が多かったようです。



北海道、稚内の稚内公園には、
「殉職九人の乙女の碑」が建っています。



戦争は絶対にしてはなりません。
戦争だけは絶対にダメです。


 

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ヤードポンド法で墜落しかかった飛行機

2021-07-11 15:56:42 | 事件・事故
1983年7月23日。
カナダで、ヤードポンド法とメートル法との計算違いで、
旅客機が飛行中にガス欠を起こし、
あわや墜落かという重大事故が発生しました。
これは、ギムリーグライダーとして有名な事故になりました。





事故を起こしたのはエアーカナダ143便の、
ボーイング767型機で、
乗員8名、乗客61名、計69名が乗っていました。
出発地はカナダ西のモントリオール空港から、
約200キロ先のオタワを経由して、
東側にあるエドモントンへ向かう予定でした。

燃料給油には燃料搭載情報システム(FQIS)を使って給油するのですが、
その日、FQISは動作に異常があった為に、
タンク内の燃料量は燃料計側棒による直接測定を行わざるを得ませんでした。

この時のエアーカナダでは、ヤードポンド法から、
メートル法への移行(メートル法化)の最中であったこと、
そして事故機は同社でシステムにメートル法を用いる、
最初の機体であった事が、背景にありました。

必要な燃料量を2万2300kgと算出するまでは正しかったのですが、
出発前のモントリオール空港での残り燃料量7682L(リットル)を、
質量に換算する際にリットルとキログラムによる比重、0,803(㎏/L)ではなく、
係員が誤って扱い慣れたリットルとポンドによる比重、
1,77(1b/L)を使用してしまったのです。

その結果、給油量は
(22300-7682×1,77)1,77=4916L
とされたが、本来は、
(22300-7682×0,803)0,803=20088Lが必要な量だったのです。

給油後に事故機の航法装置には、
燃料搭載量として22300が手動入力されました。
しかし、実際には10116キロしか燃料を搭載しておらず、
エドモントンへのフライトには到底足りません。

2名のパイロットと給油要員は装置の演算結果に疑問を抱き、
3回ほど再計算を行ってはいましたが、
同じ計算結果であったので、
機長は応急的にモントリオールからの出発を指示し、
約200キロ先の経由地オタワで燃料の再計測を行う事としました。

しかし、燃料計測棒を用いた再測定でも誤った換算係数を用いて、
残量を20400キロと見積もってしまい、
燃料の致命的不足に気づく事なくオタワを発つ事となったのです。

飛行中に燃料圧力に問題がある警報音が鳴りましたが、
機長は燃料ポンプの故障と考えて、これをオフにします。
(燃料タンクはエンジンより高所にある為に供給は可能なのです)
間もなく2回目の警告音が鳴った為に、
機長は目的地外着陸(ダイバード)を決断し、
ウィニペグ空港を目指しました。

その後すぐに左エンジンが停止し、右エンジンのみでの着陸を準備するのですが、
異常な警告音と共に右エンジンも停止する緊急事態となりました。

この時点での高度は8500メートルでしたが、
パイロット達がウィニペグ空港への距離と機の降下率を計算すると、
ウィニペグ空港へは到底辿り着けない事が分かりました。

34歳の副機長は、以前自分が勤務していたカナダ空軍の、
ギムリー基地しか望みは無い事を悟りますが、
ギムリー基地は既に民間空港になっており、
使用されず閉鎖された滑走路が、
時折開催される自動車のレースに使われていました。

機体がギムリー基地に接近するに従い、
明らかに高度が高過ぎる事が判明します。
しかし、飛行機のエンジンは停止しておりやり直しは出来ません。



48歳の機長はグライダーを趣味としており、
グライダーや軽飛行機が同じ状態になった時には、
フォワードスリップという操縦法があるのです。
それは機体を斜め横向きにスライドさせ急激に高度を落とすのです。
乗客達は横向きになった機体から斜めになった滑走路を見た(のかも知れません)

しかし、滑走路というより、使われずに近隣住民たちが遊んでいる滑走路には、
子供たちが楽し気に遊んでいる顔までハッキリと見えていたそうです。
飛行機には自動車のようなクラクションはありません。
ですからエンジンが停止して音も無く近づいてくる飛行機には、
彼等に警告を与える手段は何もないのです。

しかし、子供たちも異常に気がついて逃げ出したので、
ケガ人は誰もいませんでした。







エンジンが停止した為に、前のタイヤは出なかったのですが、
全員が無事でした。
ただ脱出シュートから大あわてで出た為に数人が軽傷を負ったそうです。

事故後、ピアソン機長は表彰され、奇跡の着陸として、
ギムリーグライダーと呼ばれ、
世界的にも有名になりました。

私もこの事故を知ったのはかなり前で、
何か活字で読んだ記憶があります。

しかし、ヤードポンド法。
まだまだスポーツなどでもメートル法ではない単位が普通に使われていますね。
日本は一応尺貫法をやめてメートル法に統一したのですから、
諸外国もメートル法でやってくれると、分り易いのですけどね。


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