更に、高尚は、古今集の歌につても、情がない歌は歌でないと力強く語ります。
万葉集の歌は、殊に人麻呂、赤人は、情をもととして詞もうるわしく、聞く人をして深くあはれと思われるように詠まれている。そのことは庭訓抄にも、「情をもととして、詞をば取捨せよ」と書かれており、それを忠実に守った俊成卿の歌にも、その万葉のよき歌のさまが見られ、深き情を詠みとることができ、それが如実に古今集にある紀貫之の歌
“くるとあくとめかれぬものをうめの花いつの人まにうつろひぬらん”
に、見ることができるのだと。
この歌は、“いつの人まにといふに、いといとあはれなるふかき情ある歌にて、めでたきを諸注みなときえず”と、誰もこの歌の本隋を解説した者はいないと云うのです。それは、更に、此の古今集全体の歌に対しても同様であると、自信満々に述べています。
何回も云う様ですが、藤井高尚は、万葉以来、古来からの歌に対して、なみなみならぬ、誰にも負けない独自の解釈をして、相当な自信を、と云うより「我こそが日本の歌のまごころを解釈する第一人者だ」と、自負の念を持っていたのだということが分かります。