私の町 吉備津

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吉備って知っている  97 藤原保則⑬ 市会議員に物申す

2009-02-03 08:51:29 | Weblog
 この保則については、ほんの4~5回と思っていたのですが、つい今日で13回にもなってしまいました。
 つい先日、新聞で「岡山市会議員の代表がオーストラリアなどの国に視察に行った。経費は総額500万円だ」という記事を読みました。
 「一体、こいつら、なにゅうかんがよんなら」と言いたい気分になりました。100年に一回の未曽有な危機であるという時にです。「ほどほどにせえ」という気分になります、あらしゅうて本気で怒る気にもなりません。こんな時こそ、その総額500万円という数字を、もっと有効な他に転用して、今確実に困っている人の救済に充てるなんて芸当ができないのでしょうか。市会議員と言うのは、そんな「正義」も何も無い、いや知らない、うつつぬかしのへこたれバカ殿の集まりででしょうか。それとも、とっくの昔に、そんな言葉をどこかへほっぽり出してしまっているような情けない人に落ちぶれてしまったのでしょうか。
 「何と情けない議員ども」
 と、わが市会議員殿に申し上げたい。
 その500万と言うお金があったるなら、もっと違った所への使い道があるのではないでしょうか。オーストラリヤなどは今どうして行かなければならない所なのでしょうか。それこそ陋習そのものではないのでしょうか。そんなことも分からない輩の集まりであれば、市会議って市長も含めて本当に情けないところであるような気がしてなりません。それでいて「政令都市だ」と、のさばっていていいもんでしょうか。
 
 まあ、そんな気持ちも少しはあって、「社会正義」の鑑でもある藤原保則の事を、ああでもない、こうでもないと、少々しつこく深く掘り下げましたが、その議員たちも今日にでもご帰還あそばすとか。
 

 いやはや前置きが随分と長くなりましたが、この視察に行った議員達のことも頭に於いて、まあ、最後の保則の逸話をお聞きください。これが為政者の正義だと思うのです。爪の垢でも飲ませたいものです。

 さて、貞観17年、秩満ちて京に帰る保則を見送ろうとして、あふれんばかりの両備の人たちは、悲号して路にはいつくばっていたのだそうです。そんな道を進んでいた保則の前に、一人の白髪のみすぼらしい老人が進みでて、酒肴を捧げ持ちて、  
 「ありがとうございました。国主様、あなたのご恩は決して忘れません。、お別れに、この濁り酒と誠に粗末な肴を用意しました。どうぞ一口でいいのです飲んでください。それで私の国主様とのお別れがしとうございます。冥土の土産に、どうぞお受け取りください」
 「折角の志ありがたく頂戴つかまつる」
 と、保則は、旅の歩を休めて、白髪の老人が差し出すお酒を飲んだという。するとどうでしょう、後から後からその老人のように酒肴を奉った両備の人が並んだと言います。
 「老人の志を見過ごすことはできない」
 と、保則は、そこに数日間も、留まったて最後の別れをしたという。
 最後の別れのため、なけなしの金をはたいてまで去りゆく国主様にと酒肴を差し出した老人も老人なら、それをありがたく旅を止めてまで飲んだ、また、その予定までを変更してでもその場にとどまった、保則の機を見る目の敏に驚かずにはいられません。
 そんなことを考えていると、今度の、市民の多くの人々の思いを振りきってまで出発した者どもの心の違いを思わざるにはいきません。
 ちょっと、また、横道にそれました。
 そのようなお礼に来るものが後から後からと無限に続くかと思われます。仕方なく保則は、密かに、「方上津(片上港)」に着きます。
 そこで最後のお別れのため待ち受けていた備前の郡司(土豪の武士)たちが見たものは、保則が持っていた持ち物(10年ばかり務めた国司の京へ帰るための荷物)のあまりにも貧弱な少なさです。「どうしてこれだけなのか」「もっとたくさんあるはずだ」「何でこれっぽちなの」と、てんでに驚きが隠せません。それからすぐにそこにいた郡司らは白米200石を持ちより、去りゆく国主保則の帰りの船に積んだのです。それを知った保則は
 「今、私の船の中に妖しげな不吉な影が立っている、前途がいたって怪しい。願わくば国分寺の僧を率いて、方上津の埠頭で般若心経を誦して私の航行の安全を祈ってほしい」
 と、いうのです。早速、大勢の僧侶が集められ、津頭で保則の船の安全を祈ったのだそうです。それもたった一回きりの般若心経をです。その読経が済むと、保則は、郡司たちの心ばかりの200石をことごとく読経の御礼と称して、国分寺の僧侶に与えます。そして、「夜中、帆を挙げて去る」とあります。
 多分、天心の月明かりのなかを静かに船出していったのだろうと思います。誰かが別れの横笛でも吹いておれば、もっと絵になるのにと、勝手に自分一人で、このお話しを楽しんでいます。
 さて、保則は、どうして国分寺の僧侶に、特に、読経させたのか、それも般若心経をたっ一回きりか、詳しくはわからないのですが、多分、当時、備前の国分寺に何かが起こっていて、財政的に困っていたので、その助けの一部にでもなればと考えてのことだろうと想像しています。再建か何かのために、という予想もできます。
 余りにも少ない荷物に、せめてのお餞別として送った郡司からの特別な物さへ一粒たりとも自分のものとしなかった保則の人物ってなんでしょう。公私をはっきりとわきまえていた人す。知れば知るほど魅力を感じる人でもあるのです。
 この保則という、たった短い一時の僥倖を両備の人はつかんだのです。それをいつまでもという気が長い行列の別れの挨拶になったのです。この僥倖は、日本の歴史の中でも100年に一回どころの話ではありません。1000年に一回あるかなしかの話であるかのように思われます。

 まあ大変な名君だと思われます。今、自分は、自分のためではない、公のために何をすべきか、何時も、常に考えて、それを実行に移していた政治家ではないかと思われます。
 「つめあか」もんですよね。・・・・・ まそれもよかですか。人生いろいろですもの。
 


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