私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  132 緒方洪庵の旅日記⑥

2009-04-04 14:38:21 | Weblog
 昨日の続きを書きます。
 「壬戌旅行日記」によると、洪庵が門人安田謙造、津下成斎、家来茂兵衛の4人で、どの道を通って倉敷に行ったかは不明なのですが、多分、現在の総社市山手経由で倉敷に行ったと思われんす。それは、この日記の中に「妹尾又玄、佐野周研、途中迄出迎」とあるのを見れば分かります。
 当時、妹尾又玄という人は適塾に学んだ後箭田に帰って、医者を開業しています。この人は23日にも宮内の茶屋「米嘉」に来ていて洪庵にあっています。2回も洪庵先生に会いに行くということは、この人は何か、これ又、理由は分からないのですが、相当な恩義を感じていたのだと思われます。
 この妹尾又玄が箭田から出向いて、倉敷ヘ行く洪庵を途中に出迎えると言えば、当然、箭田から山手に通ずる山陽道でなくてはなりません。
 こう見てくると洪庵先生一行の旅は、山手を通り倉敷に向かったと考えられます。
 次に、洪庵が到着するに宿で待っていた「守屋庸庵」という人について述べてみます。
 この人は、高松の大崎の洪庵のいとこの「石原官平」の子で、石原朴平という人です。洪庵の適塾に学び、その後、倉敷の西阿知の守屋家に養子に入った人です。この人も洪庵を倉敷の宿浅田屋で待ち受けています。なお、妹尾又玄とともに洪庵一行を山手で待ち受けていた「佐野周研」というお方は「適塾姓名録」の中には出ていませんが、その名前から、洪庵と何かの縁があった倉敷の医者です。
 また、薬屋大阪屋源介という人については、また後で、藤井高雅との関係のところで詳しく書くつもりです。

 此の倉敷でも「夜分酒宴す」とあり、洪庵も、また、相当お酒が強かったのではないかと推測しています。

 なお、この後洪庵たち一行は玉島、笠岡、尾道を経て四国路に渡り、6月2日に大阪に帰っています。何回も言いますが、この旅行の主目的は母の米寿の祝宴であったようです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿