私の町 吉備津

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再び、江漢の「画図西遊譚」

2011-03-02 12:41:28 | Weblog

 暫らく司馬江漢の「画図西遊譚」を離れていましたが、再び元に戻ります。
 
 足守藩の木下侯の招きににより足守を訪ね、備中の古い墳墓等を見学した江漢ですが、足守侯の御帰省が遅れたのでしょうか、長崎へ旅立ちます。普通なら、足守から高松に下り、山手あたりから山陽道に出て西に旅するのですが、既に、山手等の古墳等の見学を済ませていたからでしょうか、江漢は、次のようなコースを辿って西下しています。

              
 岡山を出て足守に着いたのが九月十一日です。その足守には、結局、2日間留まって、九月十四日には長崎に向けて出発しています。その様子を次のように書いています。
 「足守を発して長田村を過窪木村より宗坐(ソウザ)と云う所人家つづけり富商もあり夫より中原川を渡て岡田に至」
 と。
 
 私は小さい時は、総社近辺の人たちは、誰でも、この「総社」を、「そうじゃ」ではなしに、「ソウザ」と言っていましたが、現在は、「ソウザ」と云う人はよほど高齢者でない限りいないように思われます。その発音を聞いた江漢は、そのまま文字を適当に当てはめ「宗坐」としたのだと思います。

 また、文中に書かれている「中原川」というのもの辺りにあったのかは分かりませんが、現在の高梁川の西側に沿って上原・中原・下原という地名がありますから、多分 その「中原」のある地点から川を渡ったのではないでしょうか。現在の総社大橋付近のが中原です。この辺りから、江漢は川を渡ったのでしょうか。でも、その川の名前を聞かなかったのか、それとも忘れたのかも知りませんが、江漢が「中原川」という名前を勝手に作って、この旅行記に書いたのではないかと思います。

 この江漢が「宗坐」とした地には、これと言った名所古跡はないのですから、どうして此を経由して山陽道に出たのかは分かりません。雪舟が修行した寶福寺でも見学したのかとも思えるのですがその記事もありません。
 
 まあ、兎に角、江漢はちょっと遠回りをして、一万石の大名伊東侯の御膝下「岡田」を通って、矢掛の町に出ています。「往還なり」と書いている所を見ますと、やっと本来の道、山陽道に出たという安堵の気持ちがあったのでしょうか?この矢掛では吉備真備の墓も尋ねたのでしょうか?「吉備公の墳あり」としか書いてはいません。それから更に、那須与一と関わりのある井原も通っているのですが、この井原については何も書いてはいません。すぐ神辺から福山・尾道を経て広島に出て行ったと書いているだけです。

 そうしますと、足守の記事がこれほど多いという事は、この旅で、よほどこの町に、江漢は、注目していたのでしょうかね。

 


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