東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風とお歌(1)

2014年12月05日 | 荷風

永井荷風は、西久保八幡町の壺屋裏の壺中庵と名付けた陋屋に関根歌を囲った。前回の記事のように昭和2年(1927)10月のことである。

荷風は、新年(昭和3年(1928))を迎えると、早速お歌を伴って雑司ヶ谷霊園に父の墓参りに出かけている。

『正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人なく唯水声の鞺鞳たるを聞くのみ、堰口の橋を渡り水流に沿ひて駒留橋に到る、杖を留めて前方の岨崖を望めば老松古竹宛然一幅の画図をなす、此の地の風景昭和三年に在って猶斯くの如し、徃昔の好景盖し察するに余りあり、早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽坂を登る、日既に暮れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三々伍ゝ相携へて来徃するを見る、街頭の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり、田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す、』

正月二日は父禾原の祥月命日である。前年までは一人だけの墓参りであったが(以前の記事その1その2)、今年は絶好の連れができたのに、どうも空模様がよくない。晴れた空が薄曇り小雨が降ってきたが、どうしたものかと窓から何度も空を見上げていると、ようやく雲が切れて日が差してきた。そんなやきもきした感じが伝わってくる。墓参の後、関口の公園(いまの江戸川公園)に入り、駒留橋に至ったが、前方の崖を眺めると、老松古竹が一幅の絵のようである。この地の風景は、この昭和三年でもこのような有様であるので、むかしはさぞかし絶景であったと想像するに難くない。飯田橋に行き、神楽坂を上り、田原屋で夕食にしたが、以前からのお決まりのコースである。

翌月の5日には次の記述がある。

『二月五日 雪もよひの空なり、日高氏の書を得たれば直に返書をしたゝめて送る、薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ来ること毎夜の如し、此の女藝者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事へむとするものゝ如し、女といふものは実に不思議なものなり、お歌年はまだ二十を二ッ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり、むかしは斯くの如き妾気質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ、されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女の猶残存せるは実に意想外の事なり、絶えて無くして僅に有るものと謂ふべし、余曾て遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮 気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、是利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しく之を卑しみたり、然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひ難き所あるが如し、かゝる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でゝさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり、生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐたるなり、是文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり、されば西洋にても紐育市俄古あたりには斯くの如き女は絶えて少く、巴里に在りては屢[しばしば]之を見るべし、余既に老境に及び藝術上の野心も全く消え失せし折柄、且はまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨嘆する折柄、こゝに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし、』

お歌は毎晩のように夕食の惣菜を持ってやってくるが、この女は芸者をしていたものに似合わず正直で親切である。昨秋よりずっとその質や行いをみてきたが心より満足して自分に接しているようにみえる。女というものは実に不思議なもので、お歌は年まだ22~23ほどの若い身なのに、年50にもなりしかも病気がちの自分をたよりにし、悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑って毎日を送っている。むかしはこのような妾気質の女も珍しくはなかったが、最近になって反抗思想が普及してからは、東京という民権主義の都会に、このようなむかし風なる女がなお残っているのはじつに思いがけのないことで、絶えて無くなったがわずかにあるというべきである。自分はかつて遊び盛りの頃、若い女が年寄りの旦那一人を後生大事に浮気一つせずにおとなしく暮しているのを見る時、これは利欲のために二度とはない青春の月日を無駄にして惜しいと思う事を知らない馬鹿な女であると、はなはだこれを卑しんだ。しかし今日にいたってよくよく思えば一概にそうとも言えない難しいところがある。このような女は生来気心が弱く意地張りが少く、人中に出てさまざまな辛い目を見るよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよってただ安らかに穏なる日を送ることを望むのである。生まれながらにして進取の精神がなく、奮闘の意気がなく、自然に忍辱の悟りを開いている。これは文化の爛熟した国では見られないことである。されば西洋でもニューヨーク、シカゴあたりにはこのような女は絶えて少く、パリにあってはしばしば見ることができるだろう。自分はすでに老境に達し、芸術上の野心もまったく消え失せているとき、かつまた、わが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者が多いのを見て心ひそかに慨嘆するとき、ここに偶然このような可憐な女に巡り会ったことは、本当に老後の幸福というべきである。人生の行路につかれ果てた夕べに、ふと巡礼の女が歌をうたう声に無限の慰安と哀愁とを覚えるような心地にたとえることができる。

荷風は、旧来の日本女性の特質につき若い頃はこれを貶めるような考えを持っていたが、いまやそうむやみに否定などすることができず、むしろ好ましい特質としている。お歌をそんな旧来の女性と捉え、最大級の賛辞を呈している。前年9月17日の日乗(前回の記事)にも似た記述があるが、それよりも徹底している。

こういったことになると、荷風は、妙に決めつけ断定するようなところがあるが、お歌のことでは、気に入ったとか、惚れたとか、そういった単純だが基本的な感情に基づいているのである。そして、これは、江戸懐古といった旧いものに愛着を感じる荷風独特の感性に由来することも忘れてはならない。総じれば、お歌が旧来の女性の特質を持っていることの嬉しさからやってくるというべきか。

いずれにしても、この末文の「人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし」という喩えが当時の荷風の心情をもっともよくあらわしている。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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