前回の幾代跡から靖国通りに出て、靖国神社の参道を右折し、神社から出て、斜め前方に進む。左折すれば早稲田通り、右折すれば九段坂上。
まもなく右手に中坂上が見え、さらに進むと、右手が冬青木坂上である(現代地図)。そのまま北へ細い道を進む。大使館や学校が続くため静かな通りである。かなり緩やかな下り坂であるが、このあたりが二合半坂の坂上である。
しばらくすると、ちょっと勾配のある下り坂になるが、その坂上側から撮ったのが一枚目の写真である。坂が突然あらわれた感じで、意外性がある。二枚目は、この傾斜の下側にある坂の標柱を入れて坂上側を撮ったものである。三枚目は傾斜のさらに下側から坂上側を撮ったものである。
この坂名は、かなりユニークであるが、この坂から見えた日光山が富士山の半分の高さ(五合)に見え、この坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるからという説が主流である。
さらに進み勾配のある所を下ると突き当たるが、ここを右折してから進行方向を撮ったのが四枚目である。横関によれば、右折してからも目白通りあたりまでこの坂が続くとしているが、かなり緩やかである。
一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、左下に順に、九段坂、中坂、もちのき(冬青木)坂が平行に並んでいる。冬青木坂上から二合半坂が右(北)へ延びている。
二枚目は尾張屋板江戸切絵図 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図で、上から順に、九段坂、中坂、もちのき(冬青木)坂が平行に並んで、冬青木坂上から二合半坂が下(北)へ延びている。
これらの坂はすべて江戸時代から続く坂であることがわかる。
目白通りを横断すると、そこに甲武鉄道飯田町駅跡の石碑が立っている(現代地図)。それを撮ったのが三枚目の写真で、通りの向こうに先ほどの坂下方面が見える。
甲武鉄道は、明治22年(1889)新宿~八王子間が開通し、同28年(1895)飯田町まで延長したが、そのときの飯田町駅がこの付近にあった。その後、同37年(1904)御茶の水まで延長し、同39年(1906)国有化され、中央本線の一部となった。
この近くで缶コーヒーでちょっと休憩してから東へ向かい、日本橋川にかかる橋を渡り、ちょっと歩くと、神田三崎町界隈で出版社があり、四枚目のように、子供のころ読んだなつかしい少年雑誌の社名が見える。
さらに北に歩き、左折して行くと、一枚目の写真のように、神田川にかかる小石川橋が見えてくる(現代地図)。神田川は奥の方から橋の下を右手に流れ、ここで日本橋川が左手に別れて流れる。
橋を渡り、外堀通りの歩道を左折し川沿いに首都高の下を西へしばらく歩き、信号で横断して北へ向かう。まもなく、二枚目のように塀が見えてくるが、小石川後楽園の西側である。
やがて大きな通りに出るが、横断し左折し、ちょっとしてから右折し、次の小路を右折しそのまま進むと、石段を右に見て、三枚目のように牛坂下に至る。牛坂を上り、右手に進むと、四枚目のように牛天神である。
牛天神の石段を下り、直進すると、安藤坂下の信号である(現代地図)。ここを横断し坂上側を撮ったのが一枚目の写真である。広い通りがまっすぐに上っている。
歩道を上り、坂上側で左折し、突き当たりを左折し、道なりに進むと、緩やかな下りになるが、二枚目のように右手に荷風生家跡の標識が見えてくる。ここは何回も訪れているが、今回の最終目的地である。
そのまま緩やかな下りを進み突き当たりを右折し、金剛寺坂を上り、坂上近くを左折し、無名坂上(以前の記事(1)、以前の記事(2))を通り、春日通りに出た。この無名の階段坂のあたりは、鶯谷(うぐいすだに)と呼ばれたが、上野の同名の地とはもちろん違う。
ここから伝通院の前に出てから、善光寺坂を下った。途中、中腹の標識のところで撮ったのが三枚目である。
蒟蒻閻魔などによりながら後楽園駅まで歩き、そこで撮ったのが四枚目である。かなり日が暮れてきた。
携帯による総歩行距離は19km。
(この散策記は、今年の1月に出かけたものだが、途中で尻切れトンボ状態となっていて、年末になってようやく完結できた。)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)