東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

狸坂(千駄木)

2012年02月27日 | 坂道

根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 本郷保健所通り 狸坂上 狸坂上 前回の大給坂上から本郷保健所通りに出て右折し、次を右折すれば、狸坂の坂上である。

二枚目の写真の本郷保健所通りを北へ進み、千駄木3-14と15の間を右折する。ちょっと歩くと、三、四枚目の写真の坂上に至る。このあたりで道幅が片側にちょっと広がり、ここからほぼまっすぐに下っているが、勾配はさほどきつくない。

三、四枚目の写真のように、坂上の右の壁際に狸坂の標識が立っており、次の説明がある。

「狸坂   千駄木三丁目12と20の間
 このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので狸坂と名づけられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”とか“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。
  文京区教育委員会  平成16年3月」

狸坂上側 狸坂上側 狸坂中腹 狸坂中腹 一~四枚の写真のように、この坂は上側で緩やかで、道幅がとなりの大給坂よりも広いことがわかる。

上一枚目の尾張屋板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、団子坂のずっと北側に台地から谷戸川(藍染川)の流れる谷へ続き橋のある道が二本あるが、これらがいまの狸坂であるという確証はない。いずれにしても、江戸時代にあったとすれば、坂上は雑木林の山(狸山)で、坂下は川が流れ、そのわきに田圃があり、里山のある田園地帯であったと思われる。当然ながら、狸と狐もたくさん棲んでいた。

明治地図(明治四十年)を見ると、この坂に相当する道があるが、道筋は現在とちょっと違っており、改修などで変わったのかもしれない。戦前の昭和地図(昭和十六年)で現在とほぼ同じであるが、本郷保健所通りから直接坂上に出る道はなかったようで、いまの坂上左(北)にある駒込林町公園の北側の道から回り込んで坂上に至ったものと思われる。

狸坂下側 狸坂下側 狸坂下 一~三枚目の写真のように、坂下側でちょっと急になっていて、坂下はすぐ不忍通りにつながる。

この坂は、横関と石川には紹介されていない。岡崎にあるが、標識以上の説明はない。江戸から続く坂というには、あまりにも資料がないということなのであろう。

同名の坂が麻布の暗闇坂近くにあるが、その近くに狐坂がある。「東京23区の坂道」には、この坂近くにあるというきつね坂が紹介されている。由来など不明であるが、麻布と同じく、狸と狐がセットになってでてくるところがおかしい。さらにむじな坂も紹介されている。これらの坂は、今回行けなかったが、機会があれば、訪れてみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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