東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

藪下通り

2012年02月18日 | 坂道

藪下通り 藪下通り 藪下通り 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 前回の汐見坂下を左右に延びている道が藪下通りである。坂下を左折し北へ進むが、一枚目の写真はふり返って反対側(南)を撮ったものである。日本医大付属病院の建物が見え、その向こうは根津裏門坂である。二枚目は進行方向を撮ったもので、細くまっすぐに延びている。途中、少々曲がって団子坂の坂上まで続く。この通りは、細く、人通りも少なく、いかにも裏道といった感じで好ましい。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現裏の大田備中守の屋敷と千駄木町との間を北へダンゴサカへと延びる道があるが、この道がこの通りに相当すると思われる。近江屋板も同様であるが、その屋敷は、太田摂津守となっている。

この通りの坂上近くの歩道わきに標識が立っているが、次の説明がある。

「藪下通り
 本郷台地の上を通る中山道(国道17線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社の裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。
 むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日は、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は、森鷗外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。
 現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
  文京区教育委員会  平成7年3月」

千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜前の石段坂 上三枚目の写真の先で緩やかな上りになるが、その手前を左折し、まっすぐに進むと、前方に鬱蒼とした森がある。一枚目の写真の千駄木ふれあいの杜で、突き当たりに出入口があるので、ここに入ってみる。山道のような道ができていて、上ったり下ったりできる。下側をぐるりと一周してみる。そんなに広くはないが、都会の中で山にいる気分になる不思議な空間である。

二枚目の写真のように、ここはかなりの急斜面である。実測明治地図(明治11年)に示されている本郷台地の外縁は、新坂上、根津神社の境内の崖、根津裏門坂上、汐見坂上を結んで北へ延び、このあたりを通って、団子坂へと続いている。ここもこれまで巡ってきた坂と同じく本郷台地の東端にできた崖の一部である。

入口近くの説明パネルに、このあたりは、江戸時代、太田道灌の子孫の太田摂津守(上記の尾張屋板では大田備中守)の屋敷で、明治になると、屋敷は縮小し、太田が原と呼ばれ、風光明媚な田園地帯であったとある。

先ほど入ったところから外へ出ると、四枚目の写真のように、左手にちょっと急な石段坂がある。ここもまたかつての崖であったのであろう。

藪下通り 藪下通り 藪下通りわきの石段坂 藪下通りわきの石段坂 藪下通りにもどり、左折すると、一枚目の写真のように、緩やかな上りとなっている。二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。この通りも汐見坂とよばれるとあるので、このあたりの坂をいったのかもしれないが、確証はない。この坂上の近く左手に、三枚目の石段坂があるが、先ほどよりも緩やかである。四枚目は坂上から坂下を撮ったものである。両わきの石垣とちょっと古びた石段が風情を感じさせる。

新坂の記事で森鷗外『青年』を長々と引用したが、その最後に、主人公が「・・・、急いで裏門を出た。」とあるが、それに以下が続く。

「藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まはれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間(くしゃくにけん)というのがこれだなと思って通り過ぎる。その隣に冠木門(かぶきもん)のあるのを見ると、色川国士(いろかはこくし)別邸と不恰好な木札に書いて釘附にしてある。妙な姓名なので、新聞を読むうちに記憶していた、どこかの議員だったなと思って通る。そらから先きは余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。左側の丘陵のような処には、大分大きい木が立っているのを、ひどく乱暴に刈り込んである。手入の悪い大きい屋敷の裏手だなと思って通り過ぎる。
 爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀(かごべい)のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鷗村(おうそん)の家だなと思って、一寸立って駒寄(こまよせ)の中を覗いて見た。
 干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人の事だから、今時分は苦虫を咬み潰したような顔をして起きて出て、台所で炭薪の小言でも言っているだろうと思って、純一は身顫をして門前を立ち去った。」

藪下通り 藪下通り 藪下通り 藪下通り 主人公は、根津権現の裏門から出て、この藪下通りに入る。その両側の描写が続くが、やがて、爪先上がりの道を平になるところまで登る、とあるが、ここが先ほどの坂かもしれない。

一枚目の写真はその坂上から進行方向(北側)を撮ったものであるが、ここからさきはほぼ平坦になっている。フェンスのある右側(東)は崖で、その下に小学校のグラウンドが見える。ここを進むと、やがて、二枚目の写真のように小さな公園がある。三枚目はその北側を撮ったもので、さらに進むと、四枚目の写真のように、左側の工事中のところが観潮楼と称した鷗外の住居跡である。鷗外記念図書館があったが、現在、改築中で、ことしの11月に開館予定とのこと。

もとに戻って、主人公は、右側が崖で、上野の山までの間の人家の屋根が見えるところで、鷗村(おうそん)の家を見つけるが、これは自身(鷗村→鷗外)のことである。「干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」などと自虐的なことを書いているが、幾分かはあたっているのかもしれない。特に、老人のくせに青年の中にはいってまごついている人、というのがおもしろい。そして、その苦虫を咬み潰したような顔を思い浮かべて、見震いをして門前を立ち去るが、次に、団子坂に行く。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする