東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

異人坂~お化け階段

2012年02月02日 | 坂道

異人坂下 異人坂擁壁改修工事銘板 異人坂下 異人坂下 前回の弥生坂下の交差点を左折し、不忍通りを北に進み、次を左折する。小路を進み、突き当たりを右折すると、一枚目の写真のように、左側に壁が続く道になる。その壁に二枚目の写真の銘板が貼りつけられている。この擁壁の改修工事の記録で、異人坂の名が刻んである。

壁の先を左折すると、三枚目の写真のように、異人坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに上っているが、細い坂道で、いかにも裏道といった感じで、好ましい。三、四枚目の写真のように、片側が壁となっている坂で、これがこの坂の特徴となっている。

坂下に来たとき、お婆さんがゆっくりと下ってきたのに遭遇したが、この坂は坂上一帯と、不忍通りや根津駅とを結ぶ近道なのであろう。

異人坂中腹 異人坂中腹 異人坂上 異人坂上 尾張屋板江戸切絵図を見ると、この坂のあたりは、水戸藩邸の中で、このため、この坂は描かれていない。明治地図(明治四十年)には、この坂に相当するような道があるが、確かでない。

一枚目の写真のように、坂中腹の壁側に標識が立っているが、次の説明がある。

「異人坂  文京区弥生2-13 北側
 坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。
 外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。
 異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番地付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で、日本のレンズ工業の生みの親である。
  文京区教育委員会  平成9年3月」

上記の説明によれば、明治の比較的早い時期に開かれた坂のようで、明治の新坂であるためか、横関、石川、岡崎のいずれにものっていない。

お化け階段上 お化け階段上 お化け階段下 お化け階段下 異人坂上を直進し、突き当たりを右折し、次を右折すると、一枚目の写真のように、階段の上にでる。ちょっと下ってから左に曲がり、二枚目の写真のように、まっすぐに下っている。これがお化け階段といわれたところである。

もう5,6年ほど前のことなので、記憶がかなり薄れているが、根津神社の方からこの階段に来たことがあり、そのときは、こんなに幅の広い階段ではなかった記憶がある。三、四枚目の写真は、坂下から撮ったものであるが、左側の階段と手摺りのある右側の階段の色が違っている。以前は、左側の階段しかなく、しかも、石段は荒れて古びていたように思ったので、「東京23区の坂道」や松本泰生「東京の階段」を見たら、確かにそうである。しかも、坂下から見て右側は、低いが石垣が坂に沿ってあり、その上の金網の向こうは傾斜地の荒れ地であった。

お化け階段という名によくあう雰囲気の石段坂であったが、この数年の内で階段が改修されて拡げられ、周囲には民家やマンションができ、すっかり変わったしまった。今回、この階段は、ちょっと楽しみにしていたのだが、変化の激しさをまたもや知ることになってしまった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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