東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

動坂

2012年02月28日 | 坂道

動坂上 動坂上 動坂上 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の大給坂上、狸坂上の本郷保健所通りを右折し、北へ進むと、やがて大きな通りの交差点に至るが、ここが動坂の坂上である。不忍通りに向けて北へほぼまっすぐに下っている。勾配は中程度といったところであろうか。坂上の南側ずっと先は本郷通りにつながり、北側は田端駅へと延びている。一枚目の写真は、交差点を横断してから坂下を撮ったものである。

二枚目の写真は、坂上の交番のちょっと先に立っている標識で、「動坂(不動坂・堂坂)」とある。都内でときどき見かける金属製の大きなもので、下に「東京都 昭和58年3月」とあるように都が設置したものであろう。上側に次の説明がある。

「「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(『江戸名所図会』)
 坂上の北側に、日限地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込一丁目に移った。これが江戸時代有名な、五色不動の一つ目赤不動を祭る南谷寺である。」

動坂中腹 動坂下 動坂下 動坂下 上四枚目の尾張屋板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、トウカサト云、とあり、坂下の川に橋がかかっている。坂北側に、石不動 杉山とあり、坂上西側が御鷹匠屋敷である。近江屋板には、△ダウサカとあり、坂上の先の道に、コノ辺トウサカトイフ、とある。

『御府内備考』には次の説明がある。

「動坂
 動坂は田端村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動の像在り、是目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せるなりといふ、」

『御府内備考』などによれば、坂上北側に石不動があり、それが目赤不動になり、不動坂とすべきを略して動坂となったということらしい。現代地図を見ると、本駒込駅近くの本郷通りのわきに南谷寺があり、目赤不動尊とある。

動坂下 動坂中腹 動坂上 動坂上 動坂は、江戸から続く歴史ある坂であるが、現在、上下一~四枚目の写真のように、大きな通りの一部となって、平凡な坂道となっている。

横関は、「変貌する坂、消えてゆく坂」の章で、昭和8年(1933)ころ、駒込辺をぶらぶらしていたら、この坂路の改修工事にぶつかり、坂が変貌するありさまを眼にしたことを書いている。改修は、道路の中央から左右に分けて行われ、半分はかなり勾配を失い、いまの動坂の傾斜度どおりとなり、残った半分は昔のままのかなりの勾配のある坂らしい形であったという。こうして、特に交通量の多い道路にある坂は、なだらかに坂の平均化が図られて、むかしの形を失ってきたのであろう。同書に昭和40年代ころの動坂の写真がのっているが、坂の傾斜の様子はいまとほぼ同じである。

坂上を南へずっと歩き、本郷通りに出て本駒込駅へ。

いつもの携帯による総歩行距離は、データが残っておらず、不明であるが、たぶん、13~15km程度であろう。

今回は、本郷台地の東端にできた坂を無縁坂から動坂まで巡ったが、江戸から続く坂が意外と少なく、明治以降にできた坂もかなりあった。江戸時代までは、このあたりは北へ行くと人里離れた土地であったようで、江戸切絵図を見ると、それがよくわかる。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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