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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三べ坂~新坂

2010年09月06日 | 坂道

山王坂下からもどるようして小路を左折し北側へと歩く。すると、そこは住宅が何軒か続いており、ちょっとした住宅街になっている。坂下の隠れたところにあり、こんなところにという意外感があった。この坂下一帯は、以前は、もっと住宅があったのであろう。

ここを進むと、やがて上りとなる。右の写真は坂下から撮ったものであるが、左側に北海道東京事務所がある。

三べ坂を目指しているのであるが、ここがその坂かどうかわからない。

左の写真のように、坂を上り四差路を越えた右手に三べ坂の標柱が立っている。標柱には次の説明がある。

「この坂を三べ坂といいます。『新撰東京名所図会』には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂ともよばれていました。」

江戸切絵図を見ると、山王大権現社の西側に岡部筑前守の屋敷、その道を挟んで安部摂津守の屋敷が見え、その西側に渡辺丹後守の屋敷があり、その道に「三辺坂」とある。坂の上の西側に松平出羽守の屋敷が見える。

標柱の立っている位置が微妙であり、標柱よりも上側が三べ坂と思ってしまうが、江戸切絵図からすると、上右の写真の坂下あたりから三べ坂が始まっていると思われる。

そうすると、この坂は、北海道東京事務所のさらに下側から始まり、標柱のある交差点の直ぐ下あたりで勾配がきつく、その上から緩やかに青山通りまで上る坂であり、全体としてかなり長い坂である。

右の写真は青山通り近くの坂上から撮ったものである。右側が参議院議長公邸で、その門前に華族女学校遺跡碑が立っている。

この公邸のある所が松平出羽守の屋敷であったのであろう。

ところで、別名の水坂について横関は標柱の説明とまったく別の説を書いている。すなわち、「坂名の変化転訛」の例であり、誤記された坂名であるというのである(三谷坂参照)。「三べ坂」を早書きすると「ミづ坂」となってしまい、それを漢字で書き改めると「水坂」となって、後にその意味がわからなくなった、としている。石川と岡崎はともに標柱と同じ説である。いずれが正しいのか不明である。

標柱のある交差点までもどり、右折して進み、メキシコ大使館の前を通りすぎて突き当たりを右折すると新坂の坂上である。

左の写真は坂上から撮ったものである。細い道が真っ直ぐに下っているが、下側で左に曲がっている。

写真に見えるように坂上側に標柱が立っている。標柱には次の説明がある。

「この坂を新坂といいます。新しくできた坂ということでその名がつけられています。明治九年(一八七六)の地図には道は入っていませんが、同一七年(一八八四)参謀本部の図では現在にちかい道路がみえています。おそらくその頃できた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが官庁街にむかう役人、登校を急ぐ学生がカバンをかかえてかけ上がる風景から呼ばれたともいいます。」

右の写真は真っ直ぐに下った坂の途中から坂上を撮ったものである。かなりの勾配で下り、途中で左に曲がって外堀通りへとつづいている。

都会の中の裏町の知られていない坂道といった風情があり、特に、坂上側は石垣のあるよい坂であると思う。

外堀通りにでて右折し、赤坂見附駅へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)

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