根津美術館わきの北坂を下り、道なりに歩き、次を左折しちょっと進むと、変則的な四差路にいたるが、ここから青山霊園立山墓地のわきをまっすぐに上る坂がある。ここがもう一つの北坂である(現代地図)。港区西麻布二丁目18番と南青山四丁目28番の間を北西へと上り南青山四丁目25番と28番の間にいたる。
細い坂道がまっすぐに上っているが、坂下側が中程度の勾配で、中腹から上の方になるとかなり緩やかになる。坂下から坂上までずっと右側(東)が立山墓地である。
この坂は、ほぼまっすぐに上下しているので、坂自体のおもしろさはないが、道の細さ、片側の墓地、その樹木などのため独特の雰囲気がある。都心とは思えない静かさで、いかにも裏道といったひっそりとした感じの坂である。
先ほどの美術館わきの北坂よりも人通りが少なく、坂を上る間、だれにもすれ違わなかった。地図を見ると、先ほどの北坂とほぼ平行で、途中に北坂とつながる道がある。
石川は、北坂は青山南町五丁目の通称長者丸というあたりから墓地わきをぬけて笄町へ至る坂道であった、としている。また、『赤坂区史』は、立山墓地の西辺、南青山六丁目境を笄町へ下る坂が北坂としているようである(岡崎)。
赤坂区史がこの坂が北坂であることの根拠のようであるが、赤坂区史でいう立山墓地の西辺は、その西側を意味すると考え、南青山六丁目境を下るは、根津美術館わきを下ることであるので、赤坂区史は、むしろ美術館わきの坂を指していると考えた方がよいような気もする。
もともと北坂は、「新撰東京名所図会」の次の記載に基づくが、この「南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路」というのが問題のようである。現時点ではこれ以上のことはわからない。北坂のいわれは、長谷寺(永平寺別院)の北にあるから、ということだと思われるが、これもはっきりしない。
「北坂 南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路を北坂と称す。従前、樹間より滴たる露と崖陰より湧き出づる小径一条、蛇の如く通ずるのみなりしを明治三十二年、土工を起し開鑿する所とす。」
この坂は、明治地図(明治40年)では不明だが、昭和地図(昭和16年)には示されている。
坂上に近づくと、かなり緩やかになり、美術館わきと同じである。坂上を左折すると、美術館方面で、右折すると、青山霊園方面である。
四枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))、五枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))を見ても、この坂に相当する道筋は不明である(明治にできた坂道であれば当然であるが)。
この坂のわきから立山墓地に入り、傾斜面を下り、小さな公園わきを歩くと、外苑西通りの歩道に出てしまった。上を見上げると、青山霊園である。この通りは、霊園の西わきの谷筋にできたことがよくわかる。そのあたりでちょっとうろうろしたが、階段で上の道に出て、青山霊園に行く。この中のまっすぐな道を北へ歩き、途中、一休みし、青山一丁目駅まで歩いた。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)