東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

北坂

2016年08月18日 | 坂道

北坂下 北坂下 北坂下 北坂下 北坂下




前回の善光寺から表参道の交差点を渡り、大きい通りの一本裏道を東南へ歩く。しばらくすると大きな通りに出るが、その近くの交差点の向こうに白い塀が見える。ここが根津美術館で、そのわきを下る坂が北坂である(現代地図)。

南青山六丁目5番と南青山四丁目23番の間を南東へ西麻布二丁目19番と20番の間に下る。

写真を坂下から並べる。

西麻布の方から来ると、坂下はまだ緩やかで右に曲がってからしだいに勾配がついていく。中腹までほぼまっすぐに上っている。東側の美術館の白い壁とガードの間にできた歩道が坂下から坂上までずっと続く。

北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹




この坂は、そんなに長くはないが、中腹で右に緩やかにカーブし、坂下から坂上が見えないため、ちょっと長いと感じてしまう。はじめて来たとき、西麻布の方からだったので、そんな感じがしたのを思い出した。その中腹のカーブの手前あたりがもっとも急であるが、それでも、中程度の勾配である。

この坂には、いつもの教育委員会の標識が立っていない。石川が「新撰東京名所図会」を引用している。

「南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路を北坂と称す。従前、樹間より滴たる露と崖陰より湧き出づる小径一条、蛇の如く通ずるのみなりしを明治三十二年、土工を起し開鑿する所とす。」

この説明によれば、従前、小径一条だけであったが、明治32年(1899)に開削したとあるので、現在のようになったのは明治になってからのようである。しかし、明治地図(明治40年)を見ても、はっきりしないが、昭和地図(昭和16年)には、この坂がちゃんとある。

北坂中腹 北坂上 北坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




中腹をすぎて坂上に近づくと、かなり緩やかになり、ほぼまっすぐになって交差点にいたる。この坂は、表参道と西麻布、六本木との間を結ぶためか、おもいのほか、人通りが多い。

四枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))、五枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))を見ると、善光寺の南側に「長者ヶ丸」と言う地名がある(いまの南青山五丁目のあたり)が、横関によれば、ここが応安(1368~1375)のころ渋谷長者の屋敷があったところという。渋谷長者の姫と白金村の白金長者の息子とは恋仲で、笄橋で落ち合っていたという伝説があり、その姫は乗物で往来するのだが、時によると、乗物から降りて坂を一人で歩いたこともあったというので、ここを姫下坂といった。長者ヶ丸から笄橋に行こうとすると、長谷寺の北を通るのが普通であるので、伝説の姫下坂は、この北坂のあたりがいちばん適当な場所と考えられるとする。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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