東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

吉本隆明「坂の上、坂の下」

2012年08月08日 | 吉本隆明

『冬はじめの午後五時は、もう薄ら闇につつまれていた。西の空かわずかに残りのひかりをあげている。男は坂の上から傾斜に沿ってひろがる街筋を眺めるのが好きだと言って遠い眼をすると、わたしを物影に追いやるような手つきをして、谷中商店街を見下ろす急な階段の上で佇ちどまった。こんな表情になったら、男を放っておくより仕方がない。わたしは階段の二段目のところに腰を下ろして、煙草をとりだした。商店街の背景には駒込台の木立や家並みがシルエットの黒になって、薄明るいだけの空の下にもり上っている。学生時代はじめて家を出る男の言うままに、この坂上に佇ったとき、思わず「此処だ」と口のなかで声を呑んで、彼と顔を見合わせたときのことを思い出す。男はこの商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた。男はそのときの思いにふけるかのようだった。』

谷中銀座 谷中銀座 吉本隆明が三月に亡くなってから、さかんに追悼特集が組まれたり、追悼号が出たりしているが、その中の『文藝別冊 さようなら吉本隆明』(河出書房新社)に載っていた「吉本隆明 未刊行小説」には少々驚いた。いずれもかなり短い三つの短篇であるが、小説を書いていたということにびっくりしたのである。

上記は、その一つ「坂の上、坂の下」の冒頭部分である(といっても、きわめて短いから、これだけで全体の1/4程度にもなる)。他の二つは、「ヘンミ・スーパーの挿話」「順をぢの第三台場」。

その後に載っていた樋口良澄の「解題 物語を書く吉本隆明」によれば、これらの短篇は「週刊新潮」の企画広告として掲載されたもので、このため、目次にも掲載されなかった。上記は1999年1月14日号に載った。「スーパー」の一部は、なにか別のもので読んだような記憶があるが、なにか思い出せない。

一枚目の写真は、前回の七面坂上を左折しちょっと歩き坂上の手前から見た谷中銀座、二枚目は坂上から見た谷中銀座である。

谷中銀座(夕やけだんだん) 谷中銀座 一枚目は階段下で、この階段が「夕やけだんだん」である。二枚目は、階段下の谷中銀座である。日暮里駅からは、御殿坂を上りそのまままっすぐに西へ向かうと、この階段の上にでる。

この坂上に来たとき、思わず「ここだ」と声を呑んだという「男」と「わたし」が吉本自身で、その体験が投影されている。

『昭和二十九年(1954)十二月、隆明は上千葉の家を出た。工場のある青砥=京成青土駅と住まいのある上千葉=京成お花茶屋駅は電車で一駅だ。が、いまの隆明は、母校・東京工業大学へ「長期出張」で通う身だ。山手線に乗り換えるためには、工場と反対、上野、日暮里方向に向けて京成線に乗る。そんなある日、日暮里に下り立ち、「この辺りにきめた」のだろう。』

石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)からの引用である。以下も、同著を参考にした。

吉本一家は、昭和十六年(1941)十二月頃、新佃島から葛飾区上千葉四一八(現・葛飾区お花茶屋2-15-8)の営団住宅を勇(隆明の長兄)名義で購入し、引っ越していた。

上記のように、昭和29年(1954)12月、吉本は上千葉の家を出たが、そのころ、日暮里駅で下車し、御殿坂を上り、谷中の坂上にはじめてやってきたことが上記の短篇の背景となっている。隆明三十歳のときである。

七面坂上 昭和31年(1956)の東京23区地図をみると、階段(夕やけだんだん)はまだなく、日暮里駅から西へ進むと、そのまま七面坂を下る道となっているので、坂上とは、七面坂の坂上と思われるが、物語では階段の上となっている。

この家を出るときのことを妹の橋紀子は『兄隆明の思い出』の「ファンファーレ」で次のように書いている。

『家には、父と私と隆明の三人がいた、早春の午後のことだった。
「いやー、そのー、あのー、」と隆明が、今でも照れ隠しの時にする、頭をボリボリと掻く動作をしながら、父と私のいる部屋に入ってきた。
 隆明は、"ちゃぶだい"の前に正座し、父に向かって言った。「親父さん、俺、やっと世の中に出ていく自信が出来ました。永い間お世話になり、有難うございました」と、深々と一礼したのだ。
 父は「ああ、そうか」と、一言、お腹の底から搾りだした様な、そして呻く様な声で応え、老いて小さく萎んだ目蓋を、さらにしばたいていた。父は泣いていたのだ。父は素早い動作で、キセルに刻み煙草を詰めると、傍らの火鉢に、長いあいだ顔を埋めていた。それを機に、隆明は、静かにその場を離れたのであった。』

感動的な情景が思い浮かぶようである。吉本隆明にしても三十歳にしてやっと世の中に出ていく自信ができたと云ったこともそうだが、なりよりもそういわせた父の存在が大きく感じられる。

吉本隆明は、自身を少年から青年になりかかる頃を顧みて、『べつのことではかなり鋭敏な感受性と理解力とをもちながら、生活については、「貧乏人の箱入息子」といった程度の理解力しかもたなかった少年』(「過去についての自註」)などと卑下しているが、親父さんは、その箱入息子がいよいよ独立のときになって、寂しくてそれに黙って耐えている。それはつらいことに違いないが、明治生まれの父にとって別離はそうしてやり過ごすしかなかった。

隆明は、「この商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた」が、そこは、谷中銀座通りから右折し、よみせ通りを北へちょっと進んで左折した小路の途中にあった。駒込坂下町一六三番地(現・文京区千駄木3-45-14)の三和荘である。小説では下宿となっているが、四畳半の部屋が上下で十六室ある単身者用のアパートであった。

よみせ通り よみせ通り近く 前回の富士見坂下を右折し、北へちょっと歩き左折し、小路を通り抜けると、よみせ通りの延命地蔵尊の前にでる。ここを左折し、南へ向かう。一枚目の写真はその途中で撮ったものである。

途中、右折すると、三和荘であるが、残念ながら、このときすでになく、こぢんまりとした戸建て住宅に変わっていた。そのあたりで近所の人に尋ねたら、三和荘はここにあったとわきを示した。数年前はじめてこの辺りを訪れたとき、かなり古くなった三和荘を見ているが、すっかり変わっている。写真を撮ったような記憶もあるが、残っていないので、記憶違いかもしれない。石関の著書には、その古くなった三和荘の写真が載っている。記憶が薄れているが、わたしが訪れたのは、この石関の著書(2005年12月発行)を参考にしたのであろう。

三和荘のあった小路を通り抜け、不忍通りに出て、千代田線千駄木駅に向かったが、その通りに出る前に振り返って撮ったのが二枚目の写真である。

隆明は、ここに住みはじめた次の年、昭和30年(1955)6月東洋インキ製造株式会社を退職し失職している。これについて次のようなことを書いている。

『ある時期から、ここでも、労働組合の仕事を負い、あたうかぎりの準備ののち壊滅的な徹底闘争を企てたが敗北におわり、たらい廻しのように職場をめぐりあるき、ついに本社企画課勤務を命ずという辞令によって捕捉されるに至って、不当労働行為であると主張して転勤を肯んぜず、つめ腹を自らの手できって、退職した。』(「過去についての自註」)

また、そのころの谷中のあたりを次のように書いている。

『わたしはまだ独りでこの界隈のアパートに住んでいたとき、どうしようもない孤独感にさらされると、よく銭湯へゆき、見知らぬ群衆のすぐとなりで湯にひたり、いわば生理的にこの孤独感を中和した。この界隈の商店の人々は、二、三度、買い物をして顔をおぼえただけで、朝でかけるときや、夕刻かえるとき眼が合うと挨拶をしかけてきた。それは時としてわずらわしい感じを抱かせたが、銭湯のようにその挨拶を浴びて、慰安を感じたこともあったのは確かである。』(「都市はなぜ都市であるか」)

このアパートは、隆明が自宅を出てはじめて一人で暮らしはじめ、以降、この界隈に住み続けることになる点で、特筆すべきところであるが、それだけではない。自身が人生最大と云う事件が起きたのもここに住んでいたときである。

以下は「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)の「鮎川信夫」からの引用である。

『わたしは当時、回復するあてのない失職と、ややおくれてやってきた難しい三角関係とで、ほとんど進退きわまっていた。
 職を探しにでかけて、気が滅入ってくると、その頃青山にあったかれの家へ立ち寄った。そのままとりとめのない話をしては、夜分まで入りびたったりしていた。』
『この時期、わたしの人性上の問題について、もっとも泥まみれの体験をあたえ、じぶんがどんなに卑小な人間にすぎないか、あるいは人間はいかに卑小な人間であるかを徹底的に思いしらせ、わたしのナルチシズムの核を決定的に粉粋したのは、失職後の生活上の危機と、難しい恋愛の問題との重なりあった体験であった。そうして、この体験においてわたしの人性上にもっとも痛い批判を与えたのは、記憶によれば、一方は鮎川信夫や奥野健男であり、一方は遠山啓氏であった。わたしは、ひとかどの理念上の大衆運動をやったうえで、職をおわれたとおもって無意識のうちにいい気になっていたが、現実のほうは、ただわたしをひとりの失職して途方にくれた無数の人間の一人としてしか遇しはしなかった。これはしごく当然であるが、当時の幼稚なわたしには衝撃であった。また、いっぽうでわたしは女の問題で足掻き苦しみながら、じぶんの精神を裸にされたただの人間にすぎなかった。』

戦後まもないころ隆明は、千代田稔という日本人名をもった朝鮮人の編集者を通じて荒井文雄と知り合い、二人で「時禱」というガリ版の詩誌をはじめた(昭和21年(1946)11月~22年3月頃)。

難しい三角関係とはその友人の妻との恋愛である。上記の石関が吉本和子に問い合わせた返信などによれば、その友人は、昭和24年(1949)6月に和子と結婚し、詩のみならず絵画にも通じていたことから、住んでいた文京区向ヶ丘弥生町のアパートは、ある時期、隆明を含めた若い芸術家のたまり場であったという。昭和31年(1956)初め頃から隆明と和子との個人的なつき合いが始まり、和子は同年6月頃家を出て、入谷でひとり暮らしを始めた。

そして、和子は同年7月頃三和荘で隆明と同棲を始めた。その間のことは、川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)に詳しい。著者は隆明の東京府立化学工業学校(府立化工)の同級生である。その直接的なきっかけは、同著によれば、次のようなことであった。

『ある日、突然彼はウチのの衣類一切からふとん一式まで、自分の家に持ち運んでしまったんだ。ウチのはいくところもなく、俺のところへ転がりこんできたわけだ。そう、彼から離婚届の用紙が送られてきたのは、それから三ヵ月ほど経ってからだったかな。そして、彼はその用紙を受け取りにきた際、俺にこう言ったんだ。七年間のうちには、君たちの恋愛の結末がつくよ、ってね』

その頃の二人の生活について隆明は「わたしが料理をつくるとき」で次のように書いている。

『わたしにとって、その料理(おかず)を作ると、ある固有な感情をよびさまされるものを二、三記してみる。
(一) ネギ弁当
 (イ) カツ節をかく。カツ節は上等なのを、昔ながらの削り箱をつかってかく。
 (ロ) ネギをできるだけ薄く輪切りにする。
 (ハ) あまり深くない皿に、炊きたての御飯を盛り、(ロ)のネギを任意の量だけ、その上にふり撒き、またその上から(イ)のカツ節をかけ、グルタミン酸ソーダ類と、醤油で、少し味つけをして喰べる。
 (略)
(一)のネギ辨は、職なく、金なく、着のみ着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰べた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった。』

この短篇物語にある次の部分は、この頃が背景となっている。

『二つの女性の影が通り過ぎる。ひとりの女性には不倫を仕掛けて下宿の部屋で共棲しながら、この商店街を往き来した。まるで修羅街であるかのように男の脳裏には暗く映った。お茶やの小母さんだけが、まるで新婚の幸福な若いカップルをいたわるような優しさと親身で対応してくれて、男の苦しみや迷いを和らげてくれた。』

ネギ辨を食べてひっそりと愉しかったが、一方で、職がなく生活の危機が迫ってくる。商店街が修羅街のように暗く映った。その苦しみや迷いの感情を和らげてくれたのは、お茶やの小母さんだけであった。

現実的には、隆明は、同棲を始めた次の月(昭和31年(1956)8月1日)から、大学時代の恩師である遠山啓の紹介で、長井・江崎特許事務所に勤め始める。その後、アパートの契約切れ前の同年10月頃、三和荘を出て北区田端へ引っ越しをしている。そして、和子の離婚が同年11月2日に成立し、次の年5月31日に入籍している。三和荘を出る直前から田端へ引っ越した頃、ようやく、いろんな問題の解決が見え始めてきた。

吉本隆明にとって、谷中の坂の上は、思わず「ここだ」とこころの中で叫んだところだが、その坂の下での生活は苦難の連続であった。坂上に来た時期は、失職の問題も三角関係もすでにあったか、あるいは、遠くない将来に予見されるときであったことを考えると、なにかそういった困難な境遇に自ら意志を持って飛び込んでいくかのように見えてくる。そうすることが初めから決まっていたことであるかのように。

坂の上で自らの運命を感知したともいえるが、その感性は、変移し易い恣意的なものではなく、もっと根源的で本質的なものであった。たとえば、初期の幻想恋愛詩「エリアンの手記と詩」でイザベル・オト先生に次のようなことを云わせている。

『エリアンおまえは痛ましい性だ おまえは誰よりも鋭敏に、哀しさの底から美を抽き出してくる そしておまえはそれを現実におし拡げるのではなく地上から離して、果てしなく昇華してしまうのだ それは痛ましいことなのだよ おまえは屹度(きっと)人の世から死ぬ程の苦しみを強いられる 誰でもが人の世の現実はその様なものだときめている、その醜さ、馴れ合い、それから利害に結ばれた絆--そんなものがおまえには陥し穴のように作用する 何故陥されるのかも知らない間に陥ちて傷つくだろう おまえはきっと更めて人の世を疑い直す そうして如何にもならなくなった時、又死を考えはしないかと寂しくおもうのだ』

哀しさの底から抽き出される美を地上から離して、果てしなく昇華してしまうという純粋さ、それゆえ、人の世から死ぬ程の苦しみを強いられるという予感、そんな感性が基底にあることは間違いなく、もっといえば、それがすべてのはじまりである。

話がいきなり変わるが、後年、吉本和子は、自らの句集「寒冷前線」のあとがき(平成十年七月)で次のちょっと驚くことを書いている。

『結婚して間もなく夫から「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」と云われた。理由は、一つ家に二人の表現者がいては、家庭が上手く行く筈がないという事であった。吃驚したけれど夫は既に、二冊の本を自費出版していたし、ちょっと辛どい恋の後でもあったので、友人とも相談し「ま、子育ても表現のうちか」と納得することにした。』

これまで発表されてきたものをつなぎ合わせると、その経過がわかってくる。しかし、それでもよくわからないことがあるが、これなどもその一つである。

この短篇には、森鴎外『青年』の主人公の下宿先のモデルにちがいない家が「谷中螢坂の片方が崖になった細く右に曲って商店街に出る道のつき当りに」あったとある。この家は隆明が散歩の途中に見つけたのであろうが、その「右に曲って」は、「左に曲って」であると、この細い坂を下ってきて左に曲がってからまっすぐに下る実際の道筋とあう。

参考文献
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)
「資料・米沢時代の吉本隆明について-その八
 兄隆明の思い出」(編集発行 齋藤清一)
吉本隆明「詩的乾坤」(国文社)
「吉本隆明全著作集 15 初期作品集」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 1 定本詩集」(勁草書房)
川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)
吉本和子「寒冷前線」(深夜叢書社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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