東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

不動坂(田端)

2012年08月31日 | 坂道

不動坂上 不動坂上 不動坂中腹 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 前回の与楽寺坂上の先は、このあたりの上野台地の最高点で、田端台ともよばれる。田端高台通りがほぼ南北に通っているが、上野台地といっても東西方向にはかなり幅狭である。

この通りを横断しちょっと歩くと、一、二枚目の写真のような階段坂の坂上である。三枚目は中腹から坂上を撮ったものである。ほぼまっすぐに東へと下っている。

坂上側は踊り場が何カ所かあって緩やかであるが、途中から下側は、急な階段である。坂下を左折すると、田端駅の南口で、山手線と京浜東北線がさらに下側を走っている(散策マップ参照)。

石川によれば、坂上に不動尊の石像があったことから不動坂とよばれ、もとは東の方の田端新町へ下る長い坂であったが、線路ができたため分断され、坂上側で一部が石段坂となって残った。もとの与楽寺の寺領はいまの田端駅を含む広大な地域で、坂上にあった不動尊も同寺の仏像の一つであったという。その石像は田端不動に移されている(岡崎)。

四枚目の根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856))の部分図の中央に見える與楽寺(与楽寺)北側には、東に音無川へと続く道があるが、この道がかつての不動坂とも考えられる。しかし、この絵図はかなりデフォルメされているため確証を持てない。

不動坂中腹 不動坂中腹 不動坂上 一枚目の写真は、坂途中から坂下側を撮ったもので、フェンスの下側に田端駅ホームの屋根が見える。二枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。三枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、坂下側の階段はかなり急であることがわかる。

鉄道ができる前の明治実測地図(明治十一年)を見ると、この坂道と思われる道筋があるが、坂下に音無川が流れ、そのあたりが新堀村で、田んぼが広がっていたのであろう。

以上のように、この階段坂は、上野台地から東側の低地へと下る坂であったが、線路ができたため、上側のみが残ったものであることがよくわかる。これは、この近くの地蔵坂御殿坂などもそうであった。上野台地の東側斜面はどこも、おそらくかなり削られて往時の風景からそうとうに変わっているものと想われる。

この坂は、横関、石川、岡崎、山野、「東京23区の坂道」のいずれにもに紹介されている。

同名の坂が六本木にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする