前回の奴坂上を右折しちょっと南へ歩き、右へ少々カーブすると御薬園坂(標柱は、「薬園坂」となっている。)の坂上である。二股になっているが、右側である。左側は、後で訪ねる絶江坂の方に至る道である。
標柱の立っている坂上はほぼ平坦であるが、坂下に向けて進むと、まもなくかなりの勾配となる。ほぼまっすぐに下っているが、途中で右側にやや曲がる。坂下で緩やかになってから明治通りに出る。
尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、仙台坂上から東南に進んで来て右に若干折れ曲がった道に、御ヤクエンサカ、とある。坂下の先は、古川にかかる四ノ橋で、右側(西)が土屋采女正の下屋敷である。近江屋板も同様であるが、仙台坂上から奴坂上を通ってまっすぐに延びており、坂名はないが、坂マーク△がある。ということで、ここは、江戸から続く坂である。
御薬園坂をちょっと下ると、右手に細い坂道が見えてくる。写真のように、南麻布三丁目9の住所表示プレートが右にあるところ。ここが釣堀坂の坂上である。この道に入ると、かなり狭い坂道が中程度の勾配で西へまっすぐに下っている。
古びて苔むした石垣や植え込みの緑が両わきからせまるようになって細い下り坂が続き、どこか異界へと導かれるような錯覚をするほどである。先ほどまでの道筋とはひと味違った昔ふうの雰囲気があって、緊張するとともにわくわくした感じになる。途中からどうしたわけかちょっと幅広となる。階段がつくられているからだが、なぜ階段になっているかわからないほど緩やかな勾配のところにできている。階段はすぐに終わり、それから下側はスロープになっている。不思議な短い階段である。
短い坂ですぐに坂下に至るが、ここに至る前から向こう側に階段が眼についてくる。いやおうなしにここは坂下の低地であることを実感する。ちょうどすり鉢の底のような感じ。この坂下から見上げるような階段である。右手に紫陽花が咲いている風景もよい。この階段を上り、そこからこの坂を眺めるのもまた風景が違って見え一興である。
こういった雰囲気の坂は貴重であると思いながら周囲をながめたが、そのわけがわかったような気がした。樹木が多いせいもあるが、現代を感じさせるような建造物や建物が見えにくいからであると思う(よく見れば見えるのであるが)。散歩コースに是非入れたい隠れた名坂である。
標柱はないが、前回の奴坂下のさらに下側にある釣堀(衆楽園)との関係が気になる。
横関は、この坂を「戦前は坂下に一竿園、衆楽園等の釣堀があった」と紹介している。現在の衆楽園が横関のいう衆楽園と同じと考えると、この坂下にはかつて別の釣り堀があって、こちら側からも衆楽園の方へ行けたのかもしれない。
尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)には、御薬園坂の西側が土屋采女正の下屋敷で、この道筋はない。近江屋板も同じ。
明治大正地図にはまだないが、戦前の昭和地図にこの道筋が見える。その間にできたのであるから、そんなに古い坂ではない。しかし、その坂の風情から、江戸から続くけれど変貌しつくした坂よりも古く見えてしまう。この関係は小日向の鷺坂と似ている。
岡崎は、麻布台地の端の、南面する傾斜地で、海水がこの辺まで入り込んでいたことが推定できるとし、昭和13年の調査で、地表から30-40cm下に貝層があり、ハマグリ、アサリ、アカガイ、アカニシなどが発見されたという。
そこで、久しぶりに、中沢新一「アースダイバー」を見ると、興味深いことがわかった。
縄文海進期には、古川の方から海が北へ細く枝のように延びていたようである。ちょうど御薬園坂の西側であるが、この坂下を通って衆楽園、奴坂下へと続き、さらにそこから、仙台坂上の西に位置する天真寺の近くまで延びている。南端には元村町貝塚がある。その昔は、古川の方から細い谷がかなり長くできていたのであろう。そこには沢が流れていたかもしれない。奴坂と阿衡坂は、この谷によってできたと思われる。二つの坂は谷を横切るため、坂下ですり鉢のようになっている。
中沢は、奴坂下の衆楽園で釣り体験をしたようで、釣堀のあたりのことを次のように書いている。
「そこはまさに高台の崖下にあたる地形であった。見上げると高台の上には豪華なマンション、そこから急斜面が下がっていて、崖下に手頃な大きさの池がある。もともとそこには湧水が涌いていたそうだが、井戸を掘って地下水をくみ出し、たっぷりの水量にして、釣り堀ができた。
あたりはどんどんすました建物に建て替わっていっているのに、この釣り堀のある一角だけが、急に時間の歩みを遅くして(昔どおりということだけれど)、ぼくたちにあたりの地形をゆっくりと眺めやる余裕をあたえてくれている。」
(この後も中沢節が続くが、続きは同書でどうぞ。)
残念なことに中沢はこの釣堀坂を紹介していない。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)